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知らないと言って君は砕けた

 彼女はひどく冷たい眼をしていた。曇り硝子のような、無機質で、無感情なまなざしだ。それがどうにも不気味だったらしく、僕は曖昧な笑みで返すしかなかった。
 僕にとって彼女というものは、とても大切な存在だったはずだ。少なくとも、僕がこうして部屋に帰ってきている以上、ほんの数時間前まではそうだったに違いない。それなのに、彼女に対して今どのような感情を抱けばいいのかが、まるでわからずに混乱していた。
「だれ?」
 彼女の唇が動くのをみて、ああ、やっぱりこの子はぼくの知るあの子なのだと、脳が厭な確信を持たせにきている。いつだって無責任で残酷だよお前は、彼女が僕に問いかけたことは、なんの意味も持たない空白に等しい。
「僕は君の恋人だよ」
 ただそれだけを伝えるのにずいぶんと寄り道をして、滑稽なまでに足掻いていたような覚えがあるのに、いまとなっては僕がいつ、どこで、どういった言葉をこねくり回してそれを伝えたのかさえ、彼女は思い出せなくなっているようだった。散々馬鹿にしていた三文小説も、いざ現物として突きつけられると鈍器でしかなかった。想像は想像のまま、実際には想像もせずに終わるものだと勘違いしていたのだ。自分の愚かさが磨き上げた凶器はよけいに鋭利だった。
 彼女の手には、小さな錠剤が握りしめられていた。透明な袋に詰められたそれは、一見すればただの風邪薬にしか見えない。けれどもその正体を察してしまった以上、いままでどおりその姿を愛しいとも、尊いとも、思うことはできそうもないのだった。
「だれ?」
 僕の名前を呼んだ記憶は薄れているのだろう。それどころか彼女は、もう僕の顔すら、ぼんやり霞んでみえるくらいにまで意識が混濁しているらしい。そして、きっとあと数分もしないうちに、この世から消えることになるのだろうとも、なんとなく感じていた。
 彼女はそっと、錠剤を口に放り込んだ。飲み込んでしまわないように、舌のうえにのせて、本能めいたしぐさで僕のほうへさし出す。蜘蛛のように控えめで、おぞましい獣性。どうやら今から発する台詞が僕の遺言になるようだと、いまだに読者目線でいたのは、きっと怖かったからにちがいない。
 知らない間に変貌してしまった彼女が。それを頑なに認めようとしなかった僕の無関心と冷たさも。
「たべて」
 その瞬間、僕の喉を灼いたことばは、果たして何色に染められていったのだろう。白か黒かでは決められない、ごちゃごちゃした醜い色だ。話す事が許された音の数とおなじだけ、僕が涙を流すことができるとしたら、それはきっと三粒か六粒だけだ。
 僕は彼女の舌を噛んだ。故意だった。悪意をもって崖から突き落としたくせに、彼女の身体に歯形を残すことだけは忘れなかった。血の混じった唾液と共に、白い錠剤が床へ転がり落ちる。君の髪は雨が降るたび光っていたよ。君はよく傘を忘れていたけど、僕達は笑いながら、濡れたまま家に帰ろうと言えた。今はもう、どこにも帰れる気がしない。
 僕は彼女にとどめをさすことにした。
「嫌だ」
 部屋の鍵を開けた。鍵を閉めてしまったのは彼女のためではなくて、自分の心を守るためだったように思う。後ろから聴こえてくる嗚咽へ、俯きながら背を向けていることに、ひどく罪悪感を覚えはした。それでも、僕に振り返る勇気はない。振り向いたらそこで終わってしまう。何かが。だから、このまま、できるだけ早く、ここから立ち去るべきだ。
 ――そう思って、部屋のドアノブを引いたのだけれど。

 かちゃん。
 と、音がして、それ以上ドアは動かなくなかった。僕は焦って何度もノブをひねる。開かない。彼女の甘く、湿った息遣いが背後から聴こえる気がする。無理だ。振り返ってはならない。幻聴だ。だって彼女はもうろくに動けないはずだ。だから扉が開かないのも幻覚にちがいない。
 けれど、背中の気配は消せない。後ろ髪を撫でるような声が僕の意識を蝕む。僕を抱きしめるように、肩に手が置かれて、耳元に、

 そんなことがあってたまるか。
 僕は、臆病な心を奮い立たせて、ゆっくりと後ろを顧みたのだ。そこにあったはずの日常は、もうどこにもない。かわりに僕を見つめていたのは、濁った眼と痩せ細った腕。まるで、蜘蛛の腕だった。僕のよく知っている手だ。まったく知らない手だ。
「どうして? あなたが望んだことよ」
 違う!
 僕は叫んだつもりだったけれど、声が出なかったのかもしれない。喉の奥からは空気だけが漏れ出して、それがまた一層情けなかった。ゆらりと立ち上がった彼女の姿を視認した途端、全身から力が抜けていく。立ってはいられないほどひどい脱力感に襲われたが、膝をつくのだけはどうしても避けたかった。そこにはもう絶望しか残されていなかったから。
 ねえ、どうしてそんな顔をするの。
 彼女が僕の頭をつかんで、引き寄せて、笑った。赤い舌にはねっとりと唾液の絡んだ錠剤が乗せられていた。糸を引くそのさまを見て僕は、おもわず唾を飲んだ。何も知りたくない。何も知りたくない。涙六粒ぶんの遺言ぐらいは残しておいたら、いつか彼女は分厚い文庫本になるほどの涙を流しながら、誰かに正しく伝えてくれたりしたのだろうか。

 口の中に苦味を感じたのは一瞬。
 僕が、砕ける。

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