【児童文学評論】 110 2007.02.25
〔児童文学書評〕 <http://www.hico.jp>
【絵本】
『ハエくん』(グスティ:さく 木坂涼:やく フレーベル館 2004/2007.01 1300円)
ハエくんは、楽しみにしていた泳ぎに出かけます。もう楽しい楽しい、が、実はその泳ぎ場は・・・。
あ~言いたいけど言わない。
楽しい作品です。
絵本の力を見せつけてくれます。(ひこ)
『ぼく きょうりゅうに なったんだ』(ステラ・ブラックストーン:文 クレア・ビートン:絵 藤田千枝:訳 光村教育図書 2005/2007.2 1500円)
恐竜になった夢を見ている子どもの物語。ただそれだけなんですが、フェルトやビーズやスパンコールを使って描かれた絵が素晴らしいです。そうした素材で、これだけ豊かな表情を作り出すことができるなんて! かなり感激しました。
ただそれだけ、なんて言いましたが、文をかなりシンプルに抑えているからこそ、この絵が活きるってことでしょうね。いいよ~!(ひこ)
『ジェイミー・オルークとおばけイモ』(トミー・デ・パオラ:再話・絵 福本友美子:訳 光村教育図書 1992/2007.02 1400円)
なまけもののジェイミー・オルーク。いつもおかみさんの働きに頼っていたが、病気になってしまって、さあ大変。捕まえた妖精から金貨をせしめようとしたけど、うまく言いくるめられて、もらったのはとてつもなく大きなジャガイモができる種芋。できたできた、大きな、大きすぎるイモ。村人総出でいただくことに。でも、毎日毎日ジャガイモでは、すっかりあきてしまった村人。なのにジェイミー・オルークは、イモのかけらからまた、大きすぎるジャガイモを作ろうとするものだから、村人は大あわて・・・。
トミー・デ・パオラの絵の暖かさはいつも通り。そこに民話のほのぼのが加わって、楽しいこと!(ひこ)
『ゴォォォール!』(コリン・マクノートン:作 いわきとしゆき:訳 アスラン書房 1997/2006.11 1400円)
子ぶたのプレストンはサッカ大好き少年。今日もドリブルをしながら歩いています。これを捕まえようとするオオカミなんですが、いつもタイミングが悪くてスルリと逃げられてしまう。という展開が続いていきます。ドジなオオカミ物ですね。プレストンが全然気付いてないのがなんともおかしいです。(ひこ)
『くじらのうた』(ディヴィッド・ルーカス:作 なかがわちひろ:訳 偕成社 2006/2007.03 1300円)
くじらが海辺の町に乗り上げます。町の人たちはなんとか助けようとします。雨を降らせられれば、その水の力で海へ帰せる。そのためにはみんなでくじらのうたを歌おう。
くじらは自然の偉大さを象徴したりしますが、この作品でも、自然と人間の対峙と協調が描かれていきます。ディヴィッド・ルーカスの絵のホカホカ度が、いいです。(ひこ)
『ハクチョウ』(竹田津実:写真・文 アリス館 2007.02 1400円)
「北の国からの動物記」シリーズ第一弾。
竹田津実のライフワークでしょうか。写真に添えられた言葉は、生き物へのいとおしさに満ちています。
寒い季節の写真なのに、暖かいです。(ひこ)
『ぼくのかげ』(さぶさちえ 2007.02 1000円)
「あそびみつけた」シリーズの一冊。かげ遊びをしていたら、かげが自己主張をして、離れていって、それを追う男の子。
最後にかげ遊びの色々が解説されています。
遊びも、こうして解説しなければならない時代になって、かなりの時間が過ぎました。遊びは絶対に必要なので、様々な工夫をして伝えていくことは大事です。
この絵本では、かげが離れていくというファンタジーを使っていますが、もっと日常の遊びとして提示できた方が良かったのでは?(ひこ)
『こくはくします!』(もとしたいずみ:ぶん のぶみ:え くもん出版 2007.02 1200円)
すきなこにはすきっていうほうがいい!
はるなは、ゆうくんがだいすき。だから「こくはく」したい。でも・・・・。
幼いなりに、一生懸命かんがえているはるな。さて、どうする?
幼稚園児の人生の勝負! です。
【創作】
『ピーター・パン イン スカーレット』ジェラルディン・マコックラン作 こだまともこ訳 小学館
ジェームス・バリの名作ピーター・パンの続編、しかも描いたのは、今いちばん旬の児童文学作家のひとり、ジェラルディン・マコックランときけば、興味をそそらずにはいられない。
時は1920年代。「もと男の子」だった大人たちは毎晩のように悪夢にうなされていた。目覚めると、ベッドの上には短剣やロープ、鉄の鍵が・・・。そう、彼らはみな、ネヴァーランドでピーター・パンと冒険をした、あの「もと男の子」たちだったのだ。
ロンドンの紳士クラブに集まったジョン(ウェンディの弟)、トゥートルズ、スライトリー、カーリー、ふたご(前作から彼らには名前がない)ら懐かしの面々は、ウェンディに助けを求めることにする。今は「かしこいおくさん」になっているウェンディは、話を聞くとすぐに「夢はネヴァーランドで何か悪いことが起こっている証拠」だと説明し、ネヴァーランドに戻ろうと言う。あのウェンディのことだから、戻り方もちゃんと心得ている。奥さんたちへの言い訳を考え(なにしろ「もと男の子」たちは、今は医者や判事になって結婚しているのだから)、妖精の粉を探し、子どもの服に着替えて子どもになり、飛び方を思い出して―――こうして、もう「もと」ではない男の子たちと、女の子に戻ったウェンディはネヴァーランドへ向けて出発した。
ところが、ネヴァーランドはすっかり変わってしまっていた。気温が下がり、木々は紅葉して枯葉が舞い、インディアンたちのトーテムポールも傾いている。日の光もうすくなり、影がのびて、なんだか薄暗い雰囲気だ。そしてとうとう再会を果たしたピーター・パンも、どこか変わってしまっていた。あのトレードマークだった緑の葉の服の代わりに、真っ赤に紅葉した葉の服を着ているせいだろうか?
とはいえ、冒険好きで勇敢で、自分勝手で気まぐれで、忘れっぽいところは相変わらず。帰ってきた子どもたちに、早速ピーターは宣言する。「明日は外に出て、危なくって、ものすごーく勇敢なことをしよう!」かくしてピーター・パン隊は冒険の旅に出発するのだが・・・。
読み始めてすぐに、読者はあの名作の世界へもどることができる。勇ましくわがままで移り気なピーターやしっかり者のウェンディはまったく変わっていないし、ネヴァーランドには欠かせない"あの"悪役も登場するし、「銀行に行って、ここ何年かのあいだにためておいた度胸もぜんぶ引き出した」などという言いまわしまで、見事なまでにバリの『ピーター・パン』の世界が再現されている。
さらに作者マコックランは、新たに独自の人物たちも創造している。途方もないうそつきと呼ばれるのをなによりも誇りにしている妖精ファイアフライアや、ほつれた毛糸のような世にもふしぎな姿をしたラヴォッロは、強烈な個性を持ちながら物語世界に違和感なく溶け込んでいる。
だから、別の作者による名作の続編と聞いて多少ためらいを覚えた読者も、ひとたび本を開けば心配は杞憂だったと胸をなでおろすにちがいない。物語は冒険あり、笑いあり、あっと驚く仕掛けもあり、マコックランらしいひねりのきいた筋立てもあり、大いに楽しめるものになっている。
しかし、マコックランがバリの物語世界を完璧なまでに自分の作品として蘇らせているからこそ、気になる点も出てくる。ウェンディ・シンドロームなどという言葉も生み出した原作では、ウェンディは冒険をする男の子たちの世話役で、ジェンダーの役割は固定されている。その点、マコックランはだいぶ配慮しているが、それでもウェンディが母親的役割から完全に解放されることはないし、大人だったときの自分の家族のことなどすっかり忘れている男の子たちに対し、「自分の娘を忘れる母親がいるだろうか」といった描写も出てくる。また、ネヴァーランドに「本能」に突き動かされ迷子になったわが子を探しにくるのも、ほとんどが母親だ。
おしとやかで世話好きのウェンディを急にフェミニストにするわけにはいかないし、ピーターやフックが愛憎入り混じった感情を抱く相手を、自分を捨てた母親から別の人物に、勝手に変えるわけにもいかない。マコックランが自身の原作で今では差別語であるredskinという言葉を踏襲しているのも、おそらく同じ理由、すなわちバリの読者が混乱しないようにという配慮だろう。
もちろん登場人物の少女が世話好きだろうと、母親の愛情について描かれていようと、それ自体に問題があるわけではない。しかし、バリの原作がすばらしい想像の土台となっているのと同時に、マコックラン独自の世界が広がっていくときの足かせになっているさまが散見される。そしてそれが、はからずも批評家たちがたびたび指摘してきたバリの作品の「問題点」を改めて浮かび上がらせる結果になっている。
とはいえ、バリの名作こそが、稀代のストーリーテラー、マコックランにインスピレーションを与えたのであり、すばらしい物語が生まれるきっかけとなったのは事実だ。バリとマコックランの世界が溶け合うさまを、ぜひ確かめてほしい。(三辺)
『アヴァロン』(メグ・キャボット:作 代田亜香子:訳 理論社 2007.02 1380円)
両親が中世研究家であるエレイン。父親のサバティカルで引っ越すことに。新しく通う学校はアヴァロン・ハイスクール。そこで知り合ったのが人気ナンバーワンの男の子ウィル。彼にはジェニファーって彼女がいるけれど、何故かエレインに近づいてきます。一度も会ったことがないはずなのに、知っているような・・・と。
ウィルの親友のランスにエレインはあまり良い感じを持っていないのですが、彼とジェニファーが仲良くしているところを見てしまい、自分はウィルを好きになっていき、ウィルの気持ちはジェニファーにあるような、自分に傾いているような・・・。
エレインの名前は、アーサー王伝説を研究している母親が物語の中から選んだ物なのですが、今通う高校がアヴァロン、ウィルのミドルネームがアーサー、ウィルの恋人を奪ったのがランス、ランスロット・・・、これは偶然の一致?
ラブストーリーにアーサー王伝説をからめて、少しミステリー仕立てに。読む楽しみのための仕掛けが一杯です。かなり強引なのですが、それが気になることはありません。その強引な設定を楽しみたくなる。さすがメグ・キャボット。(ひこ)
『14歳。焼身自殺日記』(ブレント・ラニアン:著 小川美紀:訳 小学館)
著者の実体験を書いたノンフィクションです。
一年間湿疹で苦しんだ私としては、非常に読むにがシンドイものでした。
でも、肌を傷めた14歳の心が、しだいしだいに家族に開かれている様子は、感動的です。焼身自殺なんて、生きることと正反対のことをした著者が生へのこだわりをみせていくのが、とてもいいですよ。(ひこ)
『竜神七子の冒険』(越水利江子:作 小峰書店 2006.11 1500円)
『忍剣』で大ブレイク(おもろいから当然です)している越水のベタベタ京都物です。
女の子は正しく正しく、力強くて、しょうがない父さんがいて、しっかりものの母さんがいて、生きていることはしんどくないとは言わないけれど、なかなかいいもんで。庶民・大衆物の映画を見ているようで、なごみます。関西人以外にはちょっと分からないところもあるかもしれませんけれど、良いです。(ひこ)
『月あかりのおはなし集』(アリソン・アトリー:作 こだまともこ:訳 いたやさとし:絵 小学館 1945/2007.03 1100円)
短編集です。
うまく言えないですが、子どもが子どもであった時代の物語たちです。今はもう書けない空白部分を埋めてくれる作品集とでも言えばいいかな。
懐かしさより、愛おしさに満たされますよ。
表紙がチト地味なのが残念。(ひこ)
『ボーイズ・イン・ブラック』(後藤みわこ 講談社 2007.01 950円)
タイトルは「メン・イン・ブラック」。エイリアンが出てきたり、記憶を抹消したりという設定もきちんと頂いています。ただし、エイリアン側が、人間の記憶を抹消するんですが。
SFにBLがふりかけられた物語です。謎解きも含めて、楽しんでいただけたら、という後藤の真っ当なエンタメ振りが伝わってきます。
ただ、色んな設定を詰め込みすぎなので、ややこしいです。といってもシリーズ1巻目ですから、その辺りは今後解きほぐして行ってくれるでしょう。(ひこ)
『大きなウサギを送るには』(ブルハルト・シュピネン:作 はたさわゆうこ:訳 徳間書店)
コンラートは、小学校の五年生。ココアをよくこぼしてしまう弟、嫌いな食材を料理に隠し入れるのが得意なママ、寝る前にお話を作って聞かせてくれるパパの四人家族です。出来たばかりの住宅地に引っ越したので、男友達を作りたいと思っています。なのに、知り合ったのは、フリッツって女の子。 彼女のパパは今、家を出てクリスティーネという女の人と暮らしています。そんなことになったら、子どもはどんな気持ちになるのか、両親の仲がいいコンラートにはよくわかりません。だから、「パパに、家に帰ってきてって、いえばいいじゃないか」とのんきなことを言ってしまいます。しかし、フリッツは知っています。「ふたりがもう愛しあっていないなら、別れるしかないの。別れないと、ますますひどいことになって、みんながふしあわせになるだけなんだから」。 でも、分かってはいても、やっぱりフリッツは、クリスティーネを許せません。ウサギの毛にアレルギーがあるクリスティーネに、パパが飼っていたベルギー・ジャイアントというとても大きなウサギを送ることにします。それはちょっとやりすぎじゃないかと思うコンラート。だけど、フリッツの怒りに押されて反対が出来ないどころか、その計画を手伝うはめ! 両親の離婚に遭遇して、悩み、怒る子どもの姿がとてもリアルに描かれています。そして、子どもにはそれを止めることはできないことも。ですが、決して暗くはありません。ちょととぼけたコンラートと気の強いフリッツの掛け合いはとてもユーモラス。どんなに悲しくても、やがてはそれを克服していく力が子どもにはあることが伝わってきます。(ひこ・田中 産経新聞2007.02.17)
『本を読むわたし』(華恵 筑摩書房 2006)は、今15歳の著者が幼年期から読んできたお気に入りの書物15冊を選び、それにまつわる思い出を綴ったエッセイ集。6歳までアメリカに在住していたので、前半は未訳の絵本などが並ぶが、その後は新美南吉の『てぶくろを買いに』に始まって有吉佐和子の『非色』まで9冊の日本の物語が選ばれている。本好きの子どもが物語を自分の日常とどう結びつけているかの一端をかいま見せてくれるという点で、おもしろい一冊だ。 『ぼっこ』(富安陽子 偕成社)の章。小学校2年生の夏、「東京のはずれの町から都心部」に引越をした著者は、新しい友達も一杯できて転校生だと意識もしないですむような日々を送っている。3学期、体操の逆立ちで石井さんとペアを汲むけれど、ちっともうまくできない「わたし」は、持ち手の石井さんが下手だからだと思って非難してしまう。そんなイライラがあったからか、放課後、石井さんが仲の良いはずの真衣ちゃんをいじめていたので「わたし」は「やめなよ!」と言い、なおも石井さんを言葉で追いつめてしまう。そのことで真衣ちゃんとは「親友」になれたように思う「わたし」。その後「わたし」は、転校してきたとき、クラスでやる劇の、すでに誰かがやるはずだった役を転校生だからと振り分けられていたことを知る。そのことで役を降ろされた子は傷ついていると。クラスのみんなは「わたし」が石井さんのこと、劇の役のことで「反省」するのを求めているらしいけれど、「わたし」は「あやまる理由なんて、ないと思う」。それでは「わたしがわたしじゃなくなる」から。そうして「わたし」はクラスで一人になってしまう。「花いちもんめ」のとき、いままでは一番に欲しいといわれていたのに、今はだれも「わたし」を欲しがらない。最初は不安だったけれど、やがて「ひとりの時間をそれなりに過ごせるように」なっていく。そんなときに出会ったのが『ぼっこ』というわけだ。一人の帰り道、ぼっこが出てきて「オレがついててやる。だから、心配はいらんで」と言ってくれたら「最高」と「わたし」は思ったという。 15歳になってからのエッセイだから、多少の脚色も混じってしまってはいるだろうけど、子どもが物語に寄り添う、いや物語が子どもに寄り添う様がよくわかる。 たとえ様々な問題を抱えていたとしても子どもの前では一応笑顔を見せておく。笑顔を見せる余裕がないなら、「大丈夫だよ」位は言ってみせる。それが大人というものであるのは、大人が子どもに対して保護者的立場にいるからだろう。しかしすべての局面で大人がそうした立場にいるのはシンドイのも確かで、時には「友達」になってもみたいことだってあるだろう。 大人が、自分に起こった受け入れがたい出来事を別の出来事に置き換えたまま頑なに生きようとしている姿を描いたのが、『ハーフ』(草野たき ポプラ社 2006)。「ぼく」の父さんは、犬の「ヨウコをナンパして、ヨウコも父さんを好きになって、それでふたりはつきあうようになって、すぐに結婚、そんなふたりのあいだに生まれたのが、このぼくだというのだ。」「ぼくは、人間と犬のハーフということになる」。 幼かった頃はともかく今の「ぼく」はもちろんこんなことを信じているわけではない。本当の人間のお母さんの姿を思い描いてもいる。だからといって、お父さんを非難することもない。「父さんは本当にすばらしい、ヨウコができないぶん、無理して完璧にやっているようにも見えるけど。」というわけだ。また、海で怖がって泳げないでいた「ぼく」はヨウコに脚を噛まれ、驚いて海に入れたのだが、その思い出をこう語る。「ほほえましい家族の、ある夏の日の思い出。いい話じゃないか。ゆかいな話じゃないか。(略)自分がなかよしな家族の中で育ったこどもだって、信じられるから。」と。(ひこ・田中 「飛ぶ教室」7号)
『アフマドのおるすばん』(ターイェルプール:文 マアスーミヤーン:絵 愛甲恵子:訳 ブルース・インターアクションズ 1985/2006.06 1300円+税)
おかあさんは買い物に、おばあちゃんは昼寝の最中。退屈なアフマドくんは、赤ん坊のサーラーにほ乳瓶で冷たい紅茶を飲まそうとします。本当はいけないかなと思ってもいるのですが、「おかあさんが かえってきたら、きっと すごく よろこぶだろうな」を自分を納得させる辺りがリアルです。
別にひねりがあるわけでもないストレートな物語がそのまま心に入ってきます。紙や布、様々な素材を駆使して描かれる絵が、その素朴さをいっそう際だたせるイランの絵本。
『いちばんのなかよし』(ジョン・キラカ:作 さくまゆみこ:訳 アートン 2004/2006.07 1500円+税)
どうぶつ村では、火をおこすことができるネズミが大事にされていた。ネズミの親友はお隣のゾウ。ある年、干ばつとなり、作物がとれなくなる。ゾウはネズミの食料を、安全な自分の家に預かってあげるといって受け取るけれど、たちどころに食べてしまう。それを知ったネズミは怒って村を出て行く。火を失った村人は困り果て、反省したゾウは・・・・。といった昔話をアレンジした骨太の物語を、キラカはきわめてリアルな表情を持った動物たちで描いていきます。その落差が強い印象を残します。タンザニアの作品です。
『ひみつのもり』(ジーニー・ベイカー:作 さくまゆみこ:訳 光村教育図書 2000/2006.06 1400円)
海草に引っかかってしまったカゴを取るためにベンは、潜るのが得意なソフィーと共に海中へ。
そこに広がっている世界をベイカーは絵本で表現していくわけですが、その絵が素晴らしい。素材として、本物の海草や砂やカイメンだけではなく、樹脂なども使っていて、リアルであると同時に見たこともない画面となっています。まるで作家の想像の世界に同居させていただいているよう。そして、自然への思いを新たにしている自分がいるのです。
『バーガーボーイ』(アラン・デュラント文 まつおかめい絵 真珠まりこ訳 主婦の友社 2005/2006.08 1300円)
ハンバーガー大好き子どものベニーは、ついにハンバーガーになってしまい、おいしそうなのでみんなに追いかけられるはめに!
あはははは。このベニーの絵がいいな~。子どもがハンバーガーになったらこんな感じかなってのがよく出ている。このキャラは人形にして売らないともったいない。
それはともかく、逃げれば逃げるほど追われる、追う方の数が増えていく様子は、ユーモアたっぷりで楽しいです。
「食育絵本」なんだそうですが、そんなこと言わなくても、おもしろいからそれでいいと思うけど。
『やまおやじ』(今森光彦 小学館 2006.09 1550円)
クヌギの木の異様に太くなった幹を「やまおやじ」と呼ぶのですが、この写真絵本はやまおやじを中心にした、雑木林の四季を切り取っています。
雑木林はそれだけで一つの世界を完結しているのですが、そこにデンと座っているやまおやじの姿は、とても安定感があり、生き物たちが集うのも(まあ別に集っているわけじゃあないのでしょうが)わかります。ってか、見ていてなんだかこっちが安心するのです。
命の匂いに満ちた絵本。
『有名人のママをもつと』(新井けいこ:作 新野めぐみ:絵 文研出版 2006.07 1200円)
作家志望のすみれ(小学校四年生)のいとこであるらんの母親は有名作家。
妻が作家になってからスネている(と自分では自覚はしていないが)らんの父親、忙しくて自分をかまってくれなくなった母親への怒りと、自立していく女性として尊敬したい気持ちが複雑にからんでいるらん。軽いエンタメでさりげなくジェンダーバイアスに触れています。「どうして、ママはそんなにがんばれるの?」「好きなことだからよ。ただ、それだけ。」
『カラフルな闇』(まはら三桃 講談社 2006.04 1300円)
志帆は中学一年生。母と二人暮らし。母は友達のブティックに勤めてはいるが、離婚後、調子の善し悪しがはっきりしていて、よく休む。そんな母を理解していないわけではないが、志帆の心は重い。町に闇魔女が出るって噂が中学でははやっている。見た人は幸せになるという説と不幸になるという説。ある日志帆は、クラスメイトから、闇魔女に似ていると言われてしまう。13歳の微妙な心の揺れが活き活きと描かれている佳作。
『ラブ・レッスンズ』(ジャックリーン・ウィルソン:作 尾高薫:訳 理論社 2005/2006.07 1380円)
プルーデンスと妹のグレースは頑固で独占欲の強い父親に抑圧され暮らしています。自宅学習をさせられているので、同世代のこともあまり知りません。ところが父親が脳卒中で倒れ、二人は学校に通うことに。ここから話の中心は父親との葛藤や、社会性の獲得の問題に向かうかと思いきやそこはウィルソン。美術の教師ラックスとプルーデンの危ない恋の物語が展開します。でも、抑圧問題を忘れているわけではないのもウィルソンの巧さ。
『ザ・ロープメイカー 伝説を継ぐ者』(ピーター・ディキンソン:作 三辺律子:訳 ポプラ社 2001/20062006.07 1800円)
『青い鷹』、『エヴァが目覚めるとき』、『時計ネズミの謎』でおなじみのディキンソンが初めて挑戦するハイファンタジー。ティルヤたちの一族が暮らす谷は、周囲を囲む森と川にかけられた魔法によって守られていた。森の声を聞く力は一家に引き継がれてきたが、ティルヤの代では妹にその能力があり、気にとめていないようでも彼女には疎外感がある。今年の冬、魔法の防御の力が崩れてくる。ティルヤは谷を救うための使命を託され、長い旅にでる。派手なバトルはなし。ディキンソンの想像力で読ませていきます。
『フィリッピンの少女ピア 性虐待をのりこえた軌跡』(中島早苗・野川未央:著 大月書店 2006.08 1400円)
8歳から11歳まで、貧しさ故にセックスワーカーとなっていたピア。その日々と、救出されてからの活動を記したノンフィクションです。彼女を買った男たちの中には日本人もいたので、来日をためらったピア。けれど、やってきた彼女は、高校生たちに自分に起こったことをためらわずに語ります。そして、自分のことだけではなく「援助交際」をしてる日本の女の子たちへも想像力を働かせてメッセージを投げかけます。
『プレジデントFamily 10月号』(プレジデント社 2006.09 680円)
特集は「お金に困らない子の育て方」。お金がかからない子育てではありません。将来お金に困らない大人にするには、どう子どもを育てればいいか? つまり、勝ち組の育て方です。「息子も娘も、小学校高学年が第一関門」だそうです。信用する必要はありませんが、こういう露骨さが、子育てにも出てきたのです。「嫁にいける娘、いけない娘」って記事もあります。(h@moving「飛ぶ教室」7号)
【評論】『そして、ねずみ女房は星を見た:大人が読みたい子どもの本』清水真砂子著、テン・ブックス、2006年刊 まず目を引いたのが、装丁(矢崎博昭)と挿画(タカダ緑里)の魅力である。カバーは真珠光沢の紙で、その一面に点描画ふうに雨や星が散らばり、点で縁取った満月のモチーフを、赤いタワーの淡い光の円と小さな星明かりの円たちが繰り返す。淡いパステル色の渦巻き雲とそこから落ちる雨滴、丘の前後に立ち並ぶカラフルな窓の建物といったものが遊び心と軽いノスタルジーを感じさせる。表紙にも同じ意匠が白黒で使われている。またモノトーンの石版画は、扉絵や、テクストに部分的に重なる背景、あるいは脚注欄の小道具として、語りに絶好の舞台装置を構成し、中の本の世界を予感させている。 本書は大人向けの読書案内。著者の清水真砂子は翻訳の仕事も多いが、今回は「J」を相手にした語り手に徹している。収録された十三作品は、どれも著者が愛読しているものだという。フィリパ・ピアス『ペットねずみ大さわぎ』やエレイン・ローブル・カニグズバーグ『ベーグル・チームの作戦』といった英米の作家の作品に加え、ワジム・フロロフ(ロシア)やイリーナ・コルシュノフ(ドイツ)、日本の宮沢賢治と長谷川摂子の作品などが収められている。 フロロフの『愛について』やコルシュノフ『ゼバスチアンからの電話』のようなヤングアダルトを対象とした本は、もともと複雑な現実を整理し、問題を把握しやすく提示することを意図して書かれている面がある。著者はこれらの物語から、生きる上で参考になること、考えるためのヒントを、説得力あふれる語りで手際よく引き出している。 それに比べて幼年文学は大人には厄介である(と、評者は思っていた)。活字も大きく、短いのですぐに読め、じっくり味わうに至らないからだ。ところが、今回評者が対象となっている本を初めて(!)読むほど影響されたのが、ミリアム・クラーク・ポターの『ごきげんいかが がちょうおくさん』を論じた冒頭の章であった。「どうぶつむらのがちょうおくさん」シリーズはポターの代表作だという。主人公のがちょうおくさんは、そそっかしく、心配性で忘れっぽい。そんな性格が災いして、日常生活でつぎつぎに失敗や騒ぎを引き起こすが、最後にはなんとなく物事がおさまってしまう様子を描いたものである。本書を経ずに読んでいたら、おくさんを自分や周囲の人間と比べることはあっても、それ以上考えずにあっさり放り出していたかもしれない。ところが著者といっしょにこの本の世界を逍遥すると、意外なところで立ち止まり、思わぬ発見を楽しむことができる。「やねのうえの三人」のエピソードを題材とし、人のやらないことをおこなう脱日常の勇気と、それにたいする反応の面白さが見えてくる。そして、共同体とは、気配りとは、また本音とは、といったことや、冷笑とユーモアの違いにまで思いをめぐらせることになるのだ。本文を堪能したあとの「あとがき」もよい。著者は子どものとき、辛くて読めなくなると、いったん物語の外に出て、最後のページをちらとのぞいたという。そのとき、著者は主人公に「大丈夫、最後は幸せになるから」と言い聞かせたつもりだったが、じつは今になってそれが自分に向けた言葉だったと気づいたという。言うまでもなく、子どもの本を子どものときに読むのが理想である。ただ、子どものときに意識しなかったこと、できなかったことをつぎつぎに発見させてくれる本書は、大人が子どもの本を読む良さを体感させる本である。西村醇子(にしむら じゅんこ)2006年12月1日付け『週刊読書人』掲載。
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