【児童文学評論】 No.99 2006.03.25
あとがき大全(56回目)金原瑞人
1.YAというジャンル
これについて、四月号の「小説すばる」の座談会から。
金原 エンタテイメントで売れ線だったミステリーがかつてほどドル箱ではなくなった。以前は、ホラーだけど謎解きの要素があるからミステリーに入れたり、幻想小説なんだけどちょっと無理してミステリーに入れたり、と吸引運動が大きくなってミステリーがどんどん膨れ上がった。それが崩壊した後に、エンターテイメントで何がおもしろいかというのでYAがきている。YAはジャンルじゃなくて、年齢的な区切り方で、そういった意味ではミステリー以上にいろんなものが取り込みやすい。SFであってもいいし、ミステリーでもいいし。
菅原 何でもあり。
金原 主人公が必ずしもYAでなくても、おじいちゃんが主人公でもYA、強引な引き込み方だけど、柔軟性があるから。だから、最近は「おもしろい小説はすべてYAである!」と言い切ることにしているんだけど(笑)
ちょっと解説を。この座談会、菅原さんは、銀座の教文館という書店の児童書コーナー「ナルニア国」で働いている店員さん。とはいえ、最初はたまプラーザの子供の本のお店で働いていて、そのうち大学の付属中学校の図書館司書を経て、現在にいたる……という感じ。本を読む学生や、本を買う人たちをしっかり見ている、現場の人。
次に代田さん。メグ・キャボットの『プリンセス・ダイアリー』や、シンシア・カドハタの『きらきら』などで、独自の方向をひたすら進んでいるYA翻訳家。
もうひとりは、オールマイティで、かつての金原に近いスタンスで翻訳活動をしている三辺さん。三辺さん、産経新聞なんかで書評も担当しているところまで、金原に似ている。
この四人による座談会、めいめいが勝手なことをいっていて、あまりまとまりがないのだが、全体を通じて、なかなか楽しい読み物になっているので、もし興味のあるかたは、ぜひ、立ち読みでも。
さて、それはさておき、YAの非常にフレキシブルな特長について、この座談会で強調したのだが、『ぎぶそん』で今回の坪田穣治文学賞を受賞した伊藤たかみが、選考委員の西本鶏介との対談で次のように語っている。
「ヤングアダルトの分野は、エンタテイメントや純文学などほかのジャンルの技術を持ち込むことでさまざまな可能性が広がると感じている」
さらに、集英社の広告雑誌「青春と読書」の次号で(おそらく、まだ出てない)、コバルト文庫30周年を記念しての対談で、唯川恵と大岡玲が対談をしていて、そのなかで、こんなところがある。
「というのもコバルトは、主人公が若いという以外に縛りはなくて、ファンタジーもあるし推理ものもあるし社会はみたいなのもあるし、もちろん少女小説の伝統を踏まえたものまで全部入っている」
話しているのは大岡さん。
かつて(十数年前)、ヤングアダルトというジャンルは売れなかったし、出版社も出そうとしなかった。ぼくが福武書店でロバート・ウェストールの『かかし』や『ブラッカムの爆撃機』を出したときも、編集サイドは「ヤングアダルト」という言葉を使おうとしなかった。ずいぶん、時代の差を感じてしまう。
時代というのは、こういうものなのかな、という気もする。ある意味、ばかばかしいけれど、ある意味、だからこそおもしろいのかもしれない。
時代や状況にへつらうのもいやだけど、自分の感性や価値観だけで突っ走ることもできない自分としては、そういう以外ない。
しかし、時代が変わってきて、ようやく若い人々の才能や活躍に目がいくようになったのはいいことだと思う。やっぱり、時代を作っていくのは若い人々なんだから。
こないだ、阿佐ヶ谷スパイダースの長塚圭史さんたちと話していて、つくづくそう思った。あと、角川の青春文学大賞を受賞した『りはめより100倍恐ろしい』を読んだときにもそう思った。
この数年、十代、二十代の才能があちこちにあふれていて、とてもとてもうらやましい。おそらく、社会的にも、そういう才能に注目しようという機運が高まってきているのだと思う。
そういえば、こないだ『幸せな王子』(金原訳)という絵本の絵(というかテクスタイル)を作ってくれたのも、清川さん。しっかり二十代だ。
そういえば、この頃、飲み会なんかにいって、ふと気づくと、まわりはほとんど年下、という状況。
まあ、若者、がんばれといいたい。
年寄りは、若者の邪魔をしないこと。それがなによりだと思う今日この頃である。
2.『アイアンマン』『数をかぞえて』『パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々』
というわけで、今回はあとがきを三つ。
『アイアンマン』は、『ホエール・トーク』の作者クリス・クラッチャーの作品。『ホエール・トーク』が好きな人には絶対お勧め。
『数をかぞえて』は、ご存じ、デイヴィッド・アーモンドの短編集。
『パーシー・ジャクソン』はアメリカを舞台にした、ユーモラスなモダン・ファンタジー。
というわけで、あとがきを三つ。
訳者あとがき
昨年から集英社の「小説すばる」という雑誌で、「僕が次に訳したい本」というエッセイを連載している。まさにそのままの内容で、訳したい本や訳している本を紹介するコーナーだ。第一回目に取りあげたのが、ダルデンヌ兄弟の新作映画『ある子供』、近松門左衛門の『女殺油地獄』、シンシア・D・グラントの『グッバイ・ホワイト・ホース』、メルヴィン・バージェスの『Doing It』。どうしようもない主人公や登場人物の出てくる青春物をつなげてみたかったからだ。これを書いたとき、第二回目のテーマは決まっていた。クリス・クラッチャーだ。どうしようもなく残酷でやりきれない状況のなかで必死に戦う若者たちを描くクラッチャーの作品をぜひ紹介したかった。
取りあげたのは『ホエール・トーク』『アイアンマン』『Stotan!』。クラッチャーの作品をずらり三冊並べてみた。現代アメリカのヤングアダルト小説のなかで、いま最も気になっているのがクリス・クラッチャーだ。作品数は多くないが、どれも強烈に突き刺さってくる。そして念願がかなって、『ホエール・トーク』(青山出版社)が出て、いよいよ『アイアンマン』が出ることになった。この二作、舞台はワシントン州の差別の激しい町だ。『ホエール・トーク』では、体育会系の運動部員や高校を相手に、母親に捨てられ幼児期のトラウマを抱えたT・Jという少年が戦いを挑む。
そしてこの、『アイアンマン』。
主人公の少年ボーリガードは英語教師のレドモンドに対して反抗的な態度をとったため、〈短気矯正クラス〉に出席する羽目になる。ボーリガードは最初、そんな不良連中のクラスに入ることをいやがるが、指導を受けるうち、次第にとけこんでいく。そして大好きなトライアスロンの大会に向けて毎日必死に訓練を続けた。ところが、まるで天敵のように前に立ちふさがり、ボーリガードをつぶそうとする人間がいた……
ここには、差別やDVや暴力や横暴があふれている世界が容赦なく描かれているが、その世界に振り回されながらも必死に戦う若者たちも鮮やかに描かれている。
それに、登場人物がまたユニークだ。主人公のボーリガード以上にマッチョで、格闘技大好き少女シェリー。カウボーイハットをかぶってやってくる小柄な日系教師ナカタニ。その他〈短気矯正クラス〉のひと癖もふた癖もある連中。
とにかく、半端でない、直球勝負の青春小説だ!
「小説すばる」に書いた第二回目のエッセイの最後の部分を抜粋しておこう。
クラッチャーの作品はスポーツがらみのものが多い。が、どれも、マンガのスポ根物とは違う。主人公(たち)の戦う相手は敵チームではなく、どうしようもなく愚かしい状況や、どうしようもない運命なのだ。そしてまた主人公たちは、そういったどうしようもなさを自分の内に抱えていたりする。そんななかで必死に戦う若者たちを描くクラッチャーの筆は残酷なほどに容赦なく、また優しい。現代アメリカを代表するヤングアダルト作家をだれかひとりといわれば、迷うことなくクリス・クラッチャーをあげる。
最後になりましたが、ナイスサポートの編集者、田中絵里さん、原文とのつきあわせをしてくださった鈴木由美さん、質問にていねいに答えてくださったクラッチャーさんに心からの感謝を!
二〇〇六年二月十七日 金原瑞人
訳者あとがき
翻訳を始めてよかったと思うことは、あまりたくさんない。なにしろ、苦しいだけで、あまり評価されることもないし、まことに地味な作業なのだから。しかし、ひとつうれしいのは、作品をじっくり、ゆっくりかみしめることができるということだろう。まず一読して要約をまとめ、それが出版されるとなると、原文を読みながら訳していく(この作品の場合は、優秀な下訳の人がいるのだが、それでも、味わいながらその訳文に手を入れていく)
おもしろいことに、最初に一読したときの印象と、訳し終えたときの印象はかなり違うことが多い。一気に読み切ったときの印象は強烈なのに、読み返し、訳してみるうちに、そのインパクトが弱く弱くなっていく作品というのが確かにある。逆に、読み返し、訳しているうちに、ぐいぐい引きつけられ、いよいよのめりこんでしまう作品というのもある。
デイヴィッド・アーモンドの『火を食う者たち』を読んだときが、まさにそうだった。アーモンドといえば、『肩胛骨は翼のなごり』『闇の底のシルキー』『秘密の心臓』『ヘヴンアイズ』といった、舞台も設定もなんとなくファンタスティックな作品がまず頭に浮かぶ。ちょっと不思議で、かすかにグロテスクで、たまらなく魅力的な空間で、のびやかにつむがれていくみずみずしい物語、といった感じだろうか。まさにユニークな、アーモンド以外だれにも造れない宇宙が息づいている。
ところが『火を食う者たち』には、そういうった幻想的な要素はまったくない。キューバというカリブの小さな島国のミサイル基地をめぐって、アメリカとソビエトが衝突し、あわや第三次世界大戦、という状況そのものがファンタスティックといえばいえなくもないが、反面、残酷で悲惨な現実だった。そんな世界的な状況のなか、イギリスの片田舎で、横暴な教師との対立、父親の病、友だち、といった現実的な問題で悩み傷つきながらも、必死に現実に立ち向かい、父親のために、友だちのために、残酷な先生のために、そして世界のために祈る少年の姿は、とてもとてもリアルだ。そして読む人の心を大きく揺り動かす。
アーモンドから、それまでのアーモンドらしさを一切はぎとった、『火を食う者たち』という作品は、アーモンドの作家としての力をまざまざと見せつけてくれた。最初にざっと読んだときには、いい作品だなと思った程度だったのだが、訳していくうちに、身動きができなくなって、気がつくと、その世界に引きずりこまれてしまっていた。そして、なにより不思議なのは、一九六二年の世界が自分の世界と恐ろしいほど重なっていくことだった。それと同時に、主人公の男の子と自分がいつの間にか、ぴったり重なっていく。その切なさったらない。アーモンドって、なんて作家なんだろうと思ってしまう。
そのアーモンドが今度は、少年の頃の思い出をもとに、短編集を書いた。『火を食う者たち』より、さらにリアルな作品だ。舞台はいうまでもなく、一九六〇年代の北イングランドの小さな炭鉱町フェリング。少年時代の夢、希望、悲しみ、切なさ、そして愛を、ひかえめな言葉でつづった作品だ。どれもがすべて、力強く、優しく、どことなく不思議で、魅力的だ。ファンタスティックな要素はまったくない。
ここにはアーモンドの作品のエッセンスがある。おそらく、アーモンドの作品を読んだ人には、あちこちにそのモチーフが隠れているのがわかるはずだ。彼の創作の原動力になっている記憶の断片、とぎれとぎれの思い出、死ぬまで忘れられない喪失の記憶、そういったものが詰まっている。
もしかしたら、後生、アーモンドの代表作として残るのはこれなのかもしれない。
この『星を数えて』という短編集は、英語版の Counting Staras に収められている短編に、Built-up Sole という短編(Where Your Wings Were という作品集に収録)が加わっている(面倒なことに、Where Your Wings Were という短編集は Counting Stars からの抜粋なのだが、ひとつこの短編が付け加わっている) 日本のみの特別ヴァージョンだ。
どうか、アーモンドの原点を楽しんでほしい。
最後になりましたが、編集の松尾亜紀子さん、翻訳協力者の舩渡佳子さん、細かい質問にていねいに答えてくださった作者のアーモンドさんに、心からの感謝を!
二〇〇六年二月十三日 金原瑞人
訳者あとがき
転校するたびに退学処分になってしまう問題児、パーシー・ジャクソンは、校外授業でメトロポリタン美術館に行くことになった。ところが、引率の先生がいきなり、コウモリの翼とかぎづめを持つ老婆に変身。パーシーが驚いていると、仲の良かったブラナー先生がやって来てボールペンを投げてくれた。パーシーが受け取ると、ボールペンは青銅の剣に変わった……
この悪夢のような出来事のあと、次々に不思議なことが起こるようになり、やがて、パーシーは自分がギリシアの神の血を引いていることを知る。そして、そういう子どもばかりが集まる訓練所でいろんなことを教わるのだが、神々の陰謀に巻きこまれ、思いも寄らない冒険の旅に出発することになる。
さあ、いよいよ、「パーシー・ジャクソンとオリュンポスの神々」シリーズの一作目『盗まれた雷撃』のはじまりだ。
パーシーの父親は神だというが、いったいだれなのか、お母さんはほんとうに死んでしまったのか、ゼウスの雷撃を盗んだのはだれか、そういった謎が渦巻くなか、パーシーは命がけの旅にでる。そしていったん出発したが最後、ねらわれ、襲われ、痛めつけられ、休む間もなく危機にさらされる。しかしサテュロスのグローバー(ちょっと頼りない)や、女神アテナの娘アナベス(パーシーとちょっとそりが合わない)の助けを借りながら、魔物や怪獣や神々の攻撃をすりぬけ、計画の裏をかき、謎の核心に迫っていく。
まさに、スリルとアクションと謎解きのおもしろさが、ぎゅうぎゅうにつまった大スケールのアメリカン・ファンタジーだ!
なにより、設定が楽しい。あのギリシアやローマの神々が、いまやアメリカに引っ越してきていて、神々が集うオリュンポス山は、エンパイアステートビルの六百階、雲の上にぽっかり浮かんでいる。それに、ギリシア神話よりもさらに人間的な神様たちも魅力的でユーモラスだ。禁酒中で、皮肉ばかり口にする酒の神ディオニュソス、大型のバイクを乗り回すマッチョな軍神アレス、その他、ハデス、ゼウス、ポセイドン……
とにかくおもしろいファンタジーが読みたいという人は、ぜひ!
20世紀フォックス社による映画化も決まっている。シリーズ第二作目も、今年の四月には刊行予定とのこと。
作者のリック・リオーダンは数々の賞を受賞しているミステリ作家で、日本でもおなじみだが、ヤングアダルトむけのファンタジーはこれが初めて。
最後になりましたが、編集の中村宏平さん、原文とのつきあわせをしてくださった西本かおるさんに心からの感謝を!
二〇〇六年二月十六日 金原瑞人
3.あとがき大全のあとがき じつは、一週間ほど四川省の成都にいってきた。 食べ物はおいしいし、お酒もおいしいし、適度に不潔だし。とてもよいところだった。これから世界のどこにでも住ませてやるといわれたら、中国語を習って、成都にいくかもしれない。 詳しいことは、そのうちHPに書きます。 こうご期待!
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増補改訂版『英語圏の児童文学賞 受賞作品とその邦訳』http://www.hico.jp/20060321.htm
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*以下、ほそえです。
【絵本】
児童文学書評2006、3月
○幼年童話の王道
「マイケルとスーザンは一年生」ドロシー・マリノ作 まさきるりこ訳 (1963/2006.2 アリス館)
「くんちゃんのはじめてのがっこう」(ペンギン社)は、初めて小学校に行く日のわくわくした感じと、どんな風に過ごしたらいいのかわからなくてドキドキする姿を見事に描いて、小さな人たちにぜひ手渡したい絵本のひとつなのだが、その作者であるマリノが、こんな幼年童話を描いていたなんて初めて知った。絵本では小さな犬をもらった女の子の話やお引っ越ししたばかりの兄妹の話など、毎日の暮しの中で子どもがぶつかる出来事を丁寧に描き、きちんと安心のラストにたどりつく展開を得意とするマリノ。童話では出来事と出来事を結ぶ関係性が語られ、時間の経過とともに、気持ちや態度の変化をしっかりと扱うオーソドックスな幼年童話となっている。
本書は9章立てになっており、最初は全く接点のなかったマイケルとスーザンという子どもが、お誕生日ケーキに飾る6のかたちをお店で買った時、初めて出会う。同じ年なんだね、と目配せするシーンの誇らしさ。偶然、お隣同士で始まったお誕生パーティー。二つのパーティーに出ていた子供達が混ざって一緒に遊ぶ楽しさ。学校での再会。初めての学校でのともだちや上級生とのかかわり。お姉ちゃんの意外な一面を見ること。それぞれの章で印象的な出来事が語られ、それが子どもの心の成長に強く響いていく様を丁寧に描いている。それは、大人の小説のように細かな心理を描くのではなく、端的な行動として、その変化が描かれているのだ。それが幼年童話の作法なのだなあ、心と体がダイレクトに動くのが子どもの暮しなのだとこの本を読むと良くわかる。大人が読むと余りにもたんたんと進む物語に心もとなくなってしまうかもしれない。けれども、新しい場所や人への不安が、だんだんと自分の進むべき方向への期待となり、ラストではきちんと自分の居場所として確立した主人公たちの姿を見せ、読者にも成長の道筋がわかるようにしている。こういう物語の型こそ、幼い子どもの読む本の王道であり、きちんとした大人の作家が子どもにむけたあたたかなメッセージなのだ。絵本に真に子どもを目指した作品が少なくなっている現状を思うにつけ、もっともっとしっかりした幼年童話をきちんと読んであげたいと思う。
○その他の絵本、読み物
「きょうはソンミのうちで キムチをつけるひ!」チェ・インソン文 パン・ジョンファ絵 ピョン・キジャ訳 (2001/2005,12 セーラー出版)
日本でもふつうに食卓にあがるようになったキムチの作り方を絵本にしたもの。ソンミのうちに住むネズミが、近所の人や親戚などが集まってキムチをつける様子をそばで見聞きし、自分も一緒にまねをして作ってみるという構成になっている。そのため、かならず、テキストはネズミの声でくり返され、一種のリズムをつくりだしている。声を出して読む時に、いろいろと工夫すると楽しいと思う。イラストは自在で、巻末にいろんなキムチの紹介付き。
「あかちゃんが教室にきたよ」星川ひろ子写真 寺田清美・鈴木良東
小学校に赤ちゃんとおかあさんが定期的にやってきて、その成長過程を見せてもらい、一緒に遊んだり、質問したり、自分の家族に赤ちゃんの頃の自分の話をきいてきたり……という教育活動をした1年を写真でまとめた絵本。活動を広く世間に知らしめるためには絵本はなかなか有効な手段だと思う。またこの絵本を手にした子供達が自分の学校でもこんな時間を持ってみたいと思いたくなるような構成と文章が良かった。
「夜明け前から暗くなるまで」ナタリー・キンジー・ワーノック文 メアリー・アゼリアン絵 千葉茂樹訳(2002/2006,2 BL出版)
「雪の写真家ベントレー」や「ブライディさんのシャベル」など木版に彩色された力強いイラストレーションが人気の画家の絵本。アメリカ、バーモント州の農家の暮しを子供達の思い出話にそって描き出している。メープルシロップづくり、春の雪解けのぬかるみ、農場の仕事の数々、その合間に楽しまれた日々を彩る遊び……。暮しに手をかけて、毎日をしっかりと生きてきた家族の肖像を生き生きと描く。古くはバーバラ・クーニーの「にぐるまひいて」で描かれていたような暮しだが、現代の絵本では生活の厳しさよりも、その生命力に満ちた暮しをことほぐ姿勢が強いような。
「もぐらのバイオリン」デイビット・マクフェイル作 野中ともそ訳 (1999/2006.2 ポプラ社)
地面の下に住むモグラは、一匹で楽しく暮して居たのに、なんだか物足りないような気がしていました。ある日、テレビできいたバイオリンの音色に魅了され、じぶんでもバイオリンを手に入れ、練習を始めます。素敵だと思ったら、自分のものにしたいと、まず体が動くこのもぐらさんの健全さ。そのあと毎日毎日練習して、曲まで作ってしまうひたむきさ。地上では何年もすぎ、リスの落としたどんぐりは大きなくぬぎの木となって、人間は働き、憩い、戦争をし……。アメリカのベテラン絵本作家が描く、音楽の不思議。テキストと絵の両方を読み取ることで、物語が立体化し、いろんな読みを引き出してくれる。
「鬼の首引き」岩城範枝文 井上洋介絵 (2006.2 福音館書店)
くり返されるセリフの妙。どうにも憎めない鬼の親子。楽しいお話だなあと思って読んでいたら、狂言を元に絵本化したものと解説があった。狂言とはいい鉱脈を見つけたものよ。セリフの楽しさ、音のおもしろさ。展開の安定は長く演じられて洗練されてきたものの持つ強さである。画家の描く鬼の父親のおそろしくも可愛げのある様子。鬼の娘の愛らしさ。墨の滲みもかすれも自在で、ほのぼのとしたおかしみをたたえた中世の雰囲気が存分に味わえる。いい絵だ。子どもと一緒に読んで、「ほほーい」と呼び合ったり、「えいさら えいさら えいさらさー」と声を合わせたりして、たくさん笑った。
「さんびきめのかいじゅう」デビッド・マッキ-作 なかがわちひろ訳 (2005/2006.2 光村教育図書)
デビッド・マッキ-の絵本には、社会というものがどうしてもあらわれてしまう。そういう性分なのだろう。それが15、6年前は、取っつきにくい、かわいくないと日本ではあまり読みひろげられなかった。「せかいでいちばんつよい国」では、現在のアメリカを揶揄していると読まれてしまうし、あの「ぞうのエルマ-」シリーズでも、最初エルマーは一人だけ色の違うパッチワークぞうとして異分子であった様子を描いたものではなかったか。本作では石ころだらけの土地に赤と青のかいじゅうが住んでいたところへ、地震で住む場所がなくなったと黄色いかいじゅうがやってくるところからお話が始まる。石ころをどけたり、地面を平にしたり、邪魔な木をどけたりしたら、それを自分のものにしていいぞ!といったら、きいろかいじゅうはなんと島を作ってしまった。なんてえばりんぼうの赤と青のかいじゅうなの、とおこるちびちゃんに、黄色いかいじゅうの顔、赤や青のとちょっと違うね、あたまもいいよと分析するおにいちゃん。年齢も性別も違う子どもそれぞれに、いろんな思いを抱かせるマッキ-の絵本は、絵本年齢のあがってきた日本でもっともっと読まれるようになることと思う。
「帰り道の一年 生まれて死んで、また生まれる」たかはしきよし絵、文 岩瀬徹監修 (2006.1 偕成社)
通学路の道ばたにはえる植物を定点観測したようすを春から季節を追って描いた絵本。見る度に発見がある。丁寧に描かれた植物の姿の繁茂し、枯れ、また芽吹く様をページを行きつ戻りつしながら見ていくのは、楽しい。よく見る草の名前を発見したり、自分の住むところでは、いつ頃花が咲いてかなと思い返したり。巻末にある詳しい解説もなるほどと、より目をこらしてみたくなる。地味な感じの絵本だけれど、毎日の中で何度も何度も広げて読んでみたい。
「あわてんぼうさん」ライマ作 宝迫典子訳 (1999/2006.2 朔北社)
台湾の絵本。軽妙なタッチで描かれるユーモラスなかいぶつたち。時計に合わせ、それぞれの行動が描かれます。準備をしてお芝居を見に出かけるかいぶつたち。一人だけお昼寝から目覚めないのはあわてんぼうさん。みんなが歩いている中を大慌てで駆け抜けるあわてんぼうさんでしたが……。ラストのオチはよくあるパターンだけれど、テンポに合わせ、画面をコマ割りにしたり、大きさを変えたり工夫された構成が楽しい。
「クシュラの奇跡~140册の絵本との日々」ドロシー・バトラー著 百々佑利子(1975&1979/1984,2006.3 のら書房)
22年前に大きな反響を得た本の新装版。ハードカバーの大判から並製のハンディなタイプに変わり、「その後のクシュラ」を巻末に掲載している。この本を手にしたのは学生の頃だった。新聞などで大きく書評が出ており、すぐ読んだのだった。その後、編集者になってからも読んだはずだ。でも、改めて今回普及版のページをめくり、いかにこの本をきちんと読んでいなかったか痛感させられた。ここには障害のある子どもとその子を取り巻く大人の様子が描かれているが、その心境の色の濃さの濃淡があるとはいえ、小さくて弱々しい赤ちゃんと、なんとコミュニケートすれば良いものか途方にくれていた、十年前のわたしがいた。本書は学術論文をもとにかかれているので、時に表現が固く、障害の程度を細かに述べている部分など読みにくいかもしれない。けれども、小さな赤ん坊と少しでも一緒に暮したことのある人なら、どうして泣き止まないのかわからない、寝てくれないのかわからない、どうしてあやせばよいのかわからない、という経験のつらさ、その時どんなことでもしょうと思った決意、そして、少しでも気持ちが通いあったと感じられた時のうれしさを、この本を読んで思い出さない人はいないと思う。クシュラの両親たちが赤ちゃんに絵本を見せるのが早いか遅いかなんて思いもせず、自然に、身近にあったおもちゃのひとつとして絵本を一緒に見るようになったことからクシュラの<奇跡>ははじまったのだ。まず、赤ちゃんのいる家に絵本があるということ。その反応を見ながら、いろんなタイプの絵本を差し出せる環境が確保されているということ。それがブックスタートの基本なのだが、それがクシュラの家では自然にできていた。それをもっと広げていかなくちゃ。赤ちゃんから幼児へ、こどもへと。この時期に普及版のでた意味を多くの人に感じてもらいたい。
「三つの願い パレスチナとイスラエルの子どもたち」デボラ・エリス著 もりうちすみこ訳(2004/2006.1 さ・え・ら書房)
平和活動家として世界中をめぐり、そのなかから小説の形で困難の外にいる子供達にも訴えつづけている作家がパレスチナとイスラエルの子どもたちにインタビューしながら、現地の様子を記したノンフィクション。生まれた時から戦争状態にある子供達の中でも家族や自分の経験から、いろんな意見を持ち、それぞれに毎日を生き抜くことに必死である様子をカメラ・アイのように写し出す文章。日本の子どもたちにとって、(大人にとっても)本当にわかりにくい中東の現在を、同年代の子どもたちの肉声をもつことで取り込もうとしている。それは有効な方法だと思う。2000年9月から2003年3月までの間に亡くなった18才未満の子ども429人の名前を挙げたページを見るだけでもうたまらなくなる。
「ユージン・スミス 楽園への歩み」土方正志 (1993/2006.2 偕成社)
水俣をとった社会派の写真家として記憶されるユージン・スミスの評伝として、すでに評価されていた本に加筆して出された新装版。以前の版で読んだ時もユージンの余りの無防備な人間臭さに、ああと深く心打たれたのだが、刊行時よりも今の方がもっと、このユージンの存在自体が重く、社会批判となって訴えかけてくると思う。こういうノンフィクションこそきちんと子どものそばに置いておきたい。
「イェンス・ペーターと透明くん」クラウス・ペーター・ヴォルフ作 アメリー・グリーンケ絵 木本栄訳 (1997/2006.1 ひくまの出版)
ペーターは両親の言うことをよくきく、おりこうさん。でも、そこに透明くんというペーターにしか聞こえない声でしゃべる存在がでてくることで、今までの生活がめちゃくちゃになってしまう。透明くんの声をうすい青色のインクですってあるのが、いかにもでおもしろい。こういう、こどものちょっとした欲望をそそのかす存在を別の形で表現した児童書はたくさんあった。その中で、本書は他愛無いと言えば、そうだけれど、小学校の時期の男の子というおまぬけさは良くかけていて、おかしい。
「ぬまばあさんのうた」岡田淳 (2006.1 理論社)
こそあどの森の物語の8巻目。今回もまたスキッパーはバーバさんからの不思議な手紙を読んで、新しい試みをしようとする。それが石読みだ。石をずっと握っていると石の記憶が言葉となって聞こえてくると言うのだ。ふたごは以前ぬまばあさんを見たと言う方向に探検に行こうと言う。ポットさんは魚釣りを教えてくれたおじいさんの話をする。章ごとにそれぞれのお話が語られ、それが物語のラストにきちんとつづり合わされ、大きな物語のパートをになっていく。その構成が見事で飽きさせない。巻を重ねるごとに、それぞれの登場人物の考え方、行動の仕方が予想のつくシリーズものだからこそ、それぞれの小さな物語を重ね合わせたときのつながりの以外さ、収束の目出たさをストーリーテリングの豊かさに、のびのびと心をゆだねられるのだ。
「トカゲにリップクリーム?」トリーナ・ウィープ作 宮坂宏美訳 しまだ・しほ絵 (2000/2006.2 ポプラ社)
ペットシッターのお仕事を始めたアビーとテス。しっかりもののおねえさんと犬のまねばかりしている妹コンビが活躍した「金魚はあわのおふろに入らない!?」の続編。無事、ペットシッターのお仕事を始めたふたりの初仕事はトカゲのお世話。小さくておとなしいと思っていたのに、飼い主の指に噛み付いたのを見て、びびってしまう。水槽の中の植物に霧吹きで水をかけ、えさを入れ替えようとしたら、トカゲが逃げだして……。ペットのお世話と姉妹のやりとりが楽しいシリーズ。アビーがどうしてもテスを疎ましく思ってしまうのだが、それが勘違いだったとわかったり、姉妹仲をきめ細かく描くのもこのシリーズの特徴。それが楽しさの中にしっかりとした観察眼を感じさせる。(以上、ほそえ)
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*以下、ひこです。
『ながいながいかみのおひめさま』(コーミラー・ラーオーナー:文 ヴァンダナー・ビシュト:絵 木坂涼:訳 アートン 1500円 1998/2006.02)
アートンのインドの絵本、最新訳。素朴な画と画面構成は良い意味でスタンダード。というか、へたに今風にいじくらないことで、物語の力強さを上手くサポートしています。
物語は、ながい髪(という女性性)からお姫様がどう脱却していくかが、これもひねらず真っ直ぐに語っていて、気持ちいいです。つまりは素直によくわかるの。
アートン、いい仕事してます。(hico)
『嵐のティピー』(ポール・ゴーブル:作 千葉茂樹:訳 光村図書 1500円 2001/2006.01)
ネイティブ・アメリカンが使っている移動式住居ティピーに智蹴られたお守りの印にまつわる物語にティピーの解説が加わり(いや、逆か)、彼らの文化の一端を見えやすく描いています。
画、図、写真が自由に使われて楽しい仕上がり。絵本というある意味敷居の低い(んなこともないのは承知していますが)メディアを使って知らない文化を伝えるのは良い方法で、こういう作品がもっと欲しいです。(hico)
『ワイズ・ブラウンの詩の絵本』(マーガレット・ワイズ・ブラウン:詩 レナード・ワイスガード:絵 木坂涼:訳 フレーベル館 1600円 1959/2006.02)
子どもたちに自然や動物をごく身近に感じさせてくれるワイズ・ブラウンの詩とそれに添えられた絵という構成。何ほどもない作りなのですが、案外楽しいのですよこれが。短い詩の方は翻訳になってしまうので、訳者の腕でナンボ。木坂は日本語を下手にいじくるのではなく、言葉をリズムに乗せるだけで(声に出して読んでみるとよくわかる)、一つの風景を呈示していて、野菜の味だけでいただく、おいしいサラダのような仕上がりです。(hico)
『ねずみちゃんのおうちさがし』(ペトル・ホラチェック:作・絵 さんべ りつこ:訳 フレーベル館 1300円 2004/2006.01)
おおきなりんごを見つけたねずみちゃん。これを入れられるおうちを探すけれど、どこみ入り口が小さくて、もう誰かが住んでいて・・・。という繰り返し。右ページに開けられた穴、ページを繰ると誰かのお家。そのシンプルさがまず楽しい。お家を探している間に、ねずみちゃんはリンゴをかじっていましたから、段々小さくなっていく、その時間の流れも自然で好感。オチは、わかりますよね。「段々ちいさくなっていく」のですから。(hico)
『ずっとママといっしょがいいの!』(ヒド・ヘネヒテン:さく のざかえつこ:やく 主婦の友社 1300円 2005/2006.03)
いつまでもママの袋にいたい子どもカンガルーのベビルー。そんな居心地のいい場所からどう飛び出していくのか? 子どもの最初の一歩を描いています。そこはとても好感。
メスが育てる動物の擬人化物ではしばし起こることですが、子育てママとその子どもが強調されてしまいます。父親(オス)も参加の子育て環境からの子どもの第一歩ってのも読みたいな。(hico)
『もぐらのバイオリン』(ディビッド・マクフェイル:作・絵 野中ともそ:訳 ポプラ社 1200円 1999/2006.02)
バイオリンを習い始めたもぐら。土の中の自分の部屋でお稽古、お稽古。部屋の真上には小さな木。根っこの先が部屋にまでやってきていて、もぐらのバイオリンの音を浴びています。どんどん大きくなる木。木にやってくる小鳥。木陰を求める人たち。もぐらはいつか、木の周りで自分のバイオリンに耳を傾ける人々を想像し、夢見ます。
夢見ているだけなのか、ぼぐらが知らないだけで本当にそうなっているのか、それは定かではありませんが、木を境に向かい合った軍隊が、バイオリンの音色によって和解し・・・。
夢や希望とその実現が絵本という手法によって微妙に描かれ、そこがリアルです。(hico)
【創作】
交通事故で死んでしまったリズ。まだ十五歳。たどり着いたのは<ドコカ>。たぶん天国。短い人生が終わってしまった時から始まる奇妙な物語が『天国からはじまる物語』(ガブリエル・ゼヴィン 作/堀川志野舞 訳 一四七〇円)です。 <ドコカ>では、年々若返り、赤ん坊になったらまた現世に戻されます。つまり、十五歳で死んでしまったリズは、わずか十五年で、また生まれ変わることができる! けれどそれは、楽しみにしていた十六歳も十七歳も経験できず、また一からやり直さなくてはならないということでもあります。リズは落ち込みます。<ドコカ>での日々を楽しむことなんかできません。恋をするまではね。お相手のオーウェンは、随分前に大人になってから<ドコカ>へ来たのですが、リズと出会った時は、ちょうど良い年頃。 二人で老いていくのではなく、若返っていく人生。いつ死ぬかわからない日々ではなく、リズにとって、オーウェンとのそれはカウントダウンです。どんなに愛していても<ドコカ>にやってきたときの年齢と同じ年月が過ぎれば別れなくてはなりません。だからこそ、一日一日への愛おしさが、より強く伝わってきます。「よく考えてみれば、この、あともどりの人生こそが前進の人生だったのだ」と思えるようになったリズに暗さはありませんよ。読売新聞(hico)
育ち盛りって、心も体もどんどん成長していきます。だから、まだ心の準備ができていないのに体だけが先に大人に近づくことも、逆もある。それを不安定な時期だと大人は言うけれど、本人にしてみればこの状態が普通なんだよね。『ぼくのプリンときみのチョコ』(後藤みわこ 講談社 九五〇円)は、男の子と女の子の胸が入れ替わってしまうお話。 晴彦は真樹と幼なじみ。事情があって今は一緒に暮らしている。ある日晴彦は、同じ学校の志麻子も誘って三人でテーマパークへ。晴彦を好きな志麻子の気持ちは複雑。どうして三人でデートなの? どんな願いも叶えますというイベントで志麻子は、「真樹くんになりたい!」(晴彦と一緒にいたいって意味)、真樹は志麻子の気持ちを察して、「ぼくが志麻ちゃんだったら」。そんなこと信じていなかったけど、志麻子の胸はぺちゃんこになり、真樹の胸が膨らんでくる。晴彦は、それが志麻子の胸だなんて知らないまま、触りたい気持ちが抑えられません。自分は真樹を好きなのだと思いこむ晴彦。男の子の体になって来ているのを知り、晴彦への恋心を捨てようとする志麻子。あきらめるな志麻子! 心だけで恋をするのでも、体だけで好きになるのでもなく、両方は影響しあっている。そこをユーモアたっぷりに、でもちょっと切なく描いた初恋物語。読売新聞(hico)
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距離を意識する物語。(ひこ・田中)
「中学生の7%、外反母趾に「予備軍」も急増」との見出しの記事がasahi.comに載っていた(2005年08月24日23時04分)。「車社会の影響などで、子どもの足の運動能力が低下しているのが最も関係しているのだろう」と、埼玉県立小児医療センターの佐藤雅人副院長の談。それはそれで、なるほどなと、色々考えることもあったのだが、記事の最後に、専門家のコメントが載っていて、そこにこうあった。「裸足やサンダルで外で遊ぶ機会が減り、靴を履く時間が長くなっているためではないか。塾通いやテレビゲームなどの影響もあるだろう。」(高倉義典・奈良県立医大病院長)。
ん? 一瞬私は「外反母趾になりやすくなるようなゲームソフトが出ているのだろうか?」と思った。もしそうであり、それを知らなかったのなら、テレビゲームへの言及をしていないわけではない私としては自分の情報不足を反省しなければならない。が、どうやら(もちろん)そうではなく、この病院長は、何かわかりやすい具体的な原因を挙げようとして、テレビゲームを名指ししている。「靴を履く時間が長くなっている」に「塾通い」と「テレビゲーム」が並んで出てくるのがなんともすごい。
一方、「警官襲撃の中3「拳銃なかったので」手錠と警棒も盗む」(2005年8月24日23時17分 読売新聞)では、「男子生徒が多数のモデルガンやシューティングゲームのソフトを所有していることを確認した」とある。シューティングゲームのソフトを所有していることが事件の背景を探るためのデータとして記述されるわけだ。が、続けて男子生徒自身の証言がある。「現実とゲームなどの世界を混同してはいない」と。わざわざそうコメントする彼とは、なによりもまず、子どもを巡るマイナス要素(「外反母趾」から「警官襲撃」まで)に関する原因探しにおいて大人社会はテレビゲームに言及することを知っている者である。彼が起こした犯罪の原因や遠因やきっかけがテレビゲームにあるかどうかはわからないが、安易にそう結びつけては欲しくない自尊がそこにはある。
同じ日にネット上で読んだこの二つの記事。それらは、かつては「アニメ」や「まんが」が入ったであろう場所に「テレビゲーム」という言葉が使われているだけである。
子どもに関して語るとき、私たちはこうした呪縛(いつもいつでも、子どもが好きな、でも多くの大人にはおもしろさが判らない新しいメディアが、子どもを悪くしているという発想)からいつ逃れられるのだろうか?
さて、児童文学。
「ソフトボール部は、密かにハチミツドロップスっていう別名を持っているんだ。私たちがここに所属しているのは、別に汗まみれになって青春を謳歌するつもりでも、試合に勝つためでもないのよ。(略)全然サボってOK。きびしい上下関係もないしさ。お気楽で、いい加減で、さばさばしてていいよぉ」と述べるのは中学三年生女子のカズ(『ハチミツドロップス』草野たき 講談社)。つまり、頑張る「子ども」からドロップアウト(死語)している子ども。物語は、そのハチミツドロップスが崩壊するところから動き出す。カズの妹が、仲間を引き連れ、やる気満々で入部してくるのだ。ハチミツドロップスを守るために、勝つソフトボール部を目指す彼女たちと対決するかといえば、そうではない。だって、自分の主張のために戦うなんてハチミツドロップスの精神に反するのだから。なんの抵抗もせず、ハチミツドロップスは解散。だからといって潔くソフトボール部を退部なんてのも、ハチミツドロップスの精神には反するから、名目上は今も部員。カズはなんとまだキャプテンなのだ!
ハチミツドロップスは確かにオアシスなのだが、それは、一時の避難所にしか過ぎず、それを失ったとき、登場人物たちは自分自身と向き合わなければならなくなっていく。BFの直斗に振られたとき、カズはこんな風に思っている。「私はほっと胸をなでおろした。そして、直斗の前で最後まで、カズらしくいられた自分を、誇りに思った」。カズではなくカズらしくあることが大事だったのだ。そこからどう、「らしさ」とは別の自分を取り戻していくかが描かれていくのだが、これは、ほとんどそのために生きているかのような「自分探し」になってしまう危険性がある。そうはなっていないのは、元ハチミツドロップスのメンバーであった登場人物たちが、率直、時に辛辣に互いのジタバタを批判し合う描き方によるのだろう。「友達」とは、知り合いが一時だけ親しくなる関係。そういってしまうと身も蓋もないかもしれないが、距離の取り方がわからず、「友達」かハブするかの二者択一が多い現在、この物語のジタバタは別の選択肢を示してくれてもいる。
「友達」でいえば、結花一三歳(『ひな菊とペパーミント』野中柊 講談社)の次のような言葉。「夜、麻衣の携帯に電話をかけたとき、お話し中だったりすると、高田君とおしゃべりしている最中なのかな? と思って、すぅっと風が吹くみたいな感じがする。あの感じは、ほら、あれに似ている。ペパーミントのハーブティ」。
「親友」にカレシが出来て、「すぅっと風が吹く」少し寂しい胸の内なのだが、それが爽やかでもある「ペパーミントのハーブティ」に喩えられること。このことはクッキング部で、楽しそうにしている部員たちを眺めながら、彼らは料理のことで母親と話をするのだろうなと思い、しかし自分には今母親がいない(離婚)から、「私には、ありえない日常だ。そう考えるとーー すぅすぅする。ペパーミントの感じがする」と思うところでも繰り返される。結花にとって誰かとの距離が開いたり、改めてそれが感じられたりすることは決してマイナスだけではないのだ。
カズも結花も(彼らだけではないが)、関係とは融け合うものではなく距離感があってこそのものだと知っている。というか、子どもだって知っていることが描かれている。
そんな結花だから、その距離を一気に詰めてくる人間の出現で、物語は動き出す。学校でも有名な美形コンビ(当然ながらボーイズラブの噂あり)の一人松岡くん。周りはウォ! なのだが、実は、彼の母親が結花の父親と再婚しそうな気配で、それがいやな松岡くんは、共闘戦線を持ちかけてきたのだ。作戦は恋人同士のように装うこと。そう誤解してくれれば「俺たちを一緒に住まわせたら、やばいって思うに違いないよ」ってわけ。ナルホド。だからといって松岡くんは結花に好意を抱いているわけではなく「あんたみたいな妹は欲しくない」。もちろん、妹にしたくないと恋人にしたくないは別なのだが。
こうして、ペパーミントな感じとは別の関係に結花は巻き込まれていく。物語最後あたりの結花の決意は「じたばたせずに、なりゆきに任せてみよう」。子どもが主人公の作品で描かれがちな「夢中」とは別の次元だ。
関係といえば『カチューシャ』(野中ともそ 理論社)も注目。「ひとと同じ速さでものごとを片づけられなかったり、答えを見つけられなかったりすることがある」語り手の真下かじお。だもんでモーというニックネームで呼ばれている。彼は、彼の時間を生きている。だから学校でも人気者に関して、「僕は、その様をながめる。ぼんやりと。よそ者の気分で。知っていた。自分には、けっしてそんなことは起こりっこないって」と思うけれど、それは疎外感だけを生むのではなく、「その認識は、僕を安らかな心地にさせるのだった」となる。彼もまた距離を意識している子ども。そこに現れる転校生が、日本人とロシア人のダブルである女の子カチューシャ。たちまち彼女は人気者となる。真下は学校で出会う前に偶然彼女を知っていたのだが、その時の跳ねているキャラから一転して、学校で彼女は淑やかだ。二人だけの時カチューシャは真下に言う。「人気どころの上級生。クラスで目立つ女子グループ。まずそのへんおさえときゃ、あとは赤子の手をひねるみたいなもんだな」。彼女は距離を演出する。なぜそうするのか? 彼女が付き合う男子には暴力的なコが多いのだが、付き合った後(まあ、カチューシャに振られた後ですね)、「ぱったり他のやつにつっかかったりしていない」から、真下は訊く。「カチューシャが、そう仕向けてるんじゃない? 彼らがやさしくなるように」と。カチューシャは言う。「ひとと争ったり何かを奪ったりなんて、意味ないじゃん」と。
そんなカチューシャの背景として、彼女の祖父が戦争に行ったこと、「カチューシャ」は髪飾りであり、ソ連が第二次世界大戦で使用したロケットランチャーでもあることなどを丁寧に描き込むことで、物語はリアルさを増していく。
パパは海外単身赴任、ママはパリで事故にあったおばあちゃんの看護をしなければならなくなり、美少年なぎさは、ママの従姉妹三反崎家にお世話になることに。母親と娘三人の女ばかりの家族。う~ん。なぎさは女の子に間違われ、どうやら男嫌いの一家らしいので、男の子と知れてはマズイと思って誤解されたままで通すことにする・・・。新しく始まったポプラ社のDreamスマッシュシリーズの一冊『おれとかのじょの微妙Days』(令丈ヒロ子 ポプラ社)は、ややこしい話はなしのロマンティックコメディだが、その設定によって男の子に女の子の世界を伝える機能は持っている。無益な女の子幻想(妄想)を沈静すること、見る見られるの関係に気付くことetc。もちろんそれを目論んでいる物語ではないのだけれど、そうした効能がある。同じシリーズ『忍剣花百面伝1 めざめよ鬼神の剣』(越水利江子 ポプラ社)は目新しいわけではないが、「次はどうなる!」とページを繰らせる技がある。児童書ではないが、『勉強ができなくても恥ずかしくない』(全3巻 橋本治 ちくまプリマー新書)は、今の子どもに向けて昔の子どもを語ることで、子どもが子ども自身を考えることができる物語。『子供たち怒る怒る怒る』(佐藤友哉 新潮社)、『グルーヴ17』(戸梶圭太 新潮社)も児童書ではないが、子どもと若者を描いている。そこに暴力があふれているのは、暴力でしか描けない「今」という認識なのだろう。
大人の文学のYA&児童書化は進んでいる。「飛ぶ教室」2005年秋号(hico)
【評論】マイケル・ホワイト著『ナルニア国の父 C・S・ルイス』西村醇子
児童文学作品が映画化されるたびに原作と関連本が書店の店頭を賑わす光景は、もはや珍しいものではない。最近では「ハリー・ポッター」と、三月公開の『ライオンと魔女』(C・S・ルイス)がコーナーを飾っている。では『チョコレート工場の秘密』(ダール)は、『魔法使いハウルと火の悪魔』(ジョーンズ)は、『指輪物語』(トールキン)はどうした、と文句をつけるのは愚の骨頂。人々の興味が持続すると期待してはいけない。 児童文学関係者としては、各種メディアが特集を組むことにもまして評伝や研究書出版が増えることは嬉しい。とはいえ、『C・S・ルイス「ナルニア国年代記」読本』を始め、先行研究の豊富なルイスに何を付け加えるのか、という疑念もあった。 ルイスには学者、宗教者、作家としての顔があるが、前二つを高く評価する人々は、彼を崇拝したり聖人扱いしたりする傾向があるらしい。だが前述の『読本』の研究小史によると、一九九〇年(A・ウィルソン)以降、現実の人間としてのルイスを描く動きがでてきた。ホワイトもその一人で、二〇〇五年刊の本書では神を信じないと述べ、客観的な立場からルイスを見ようとしている。結果として彼の解釈を通したルイスの人物像は、複雑でまた興味深い。たとえばルイスは父と疎遠になったが、ホワイトはルイスが自伝で描いている父親像には「偏った記憶と客観的な見方の欠如」という難点があると見る。また、ルイスの自伝『不意なる歓び』に長年同居したジェイニー・ムーアへの本心が記されていないのは、ルイスがもともとフィクションでしか感情を率直に表現することができなかったうえ、「たとえ彼自身の心の奥深く潜んでいる抑圧を征服することが可能だったとしても」晩年に結婚したジョイへの考慮から、書けなかったのだという。ルイスのフィクションがもつ創造性に魅力を感じたというホワイトは、一九三〇年代以降の、著作家としてのルイスを重視している。六章で、十数ページにわたりファンタジーの歴史が展開している箇所はバランスを欠いているように感じるが、実際にはルイスへの影響関係という視点は保たれている。そして圧巻は、オックスフォード大学での交友関係、とくにトールキンとの間柄を語っている部分であろう。ルイスはトールキンと二十年あまり固い友情を結んだ。「一言でいうと、二人の最もつよいつながりは世事のほとんどにたいする無関心と、知的な事柄にたいする全的といってもよい関心の集中にあった」。ふたりの作品はよく比較されるが、ホワイトによれば、スピードと流れるような自然さを重視するルイスと、細心の注意を払い、文章を彫琢することを誇りとしているトールキンはタイプが異なっているので、比較は不当だという。このあたりから、ホワイトの筆は滑らかとなり、性格の相違と嫉妬心、さらに当時の主要事件や、宗教上の規範などを踏まえて、友情の発端から決裂までの軌跡を浮かび上がらせる。おかげで、どちらかというとトールキンの側からルイスを眺めてきた筆者も、新たな眺望をえる感があった。 ホワイトは、ルイスの味わったであろう葛藤を知る上で欠かせない当時の社会的規範、宗教観を過不足なく記述することで、ルイスの複雑な内面に迫ることに成功した。最終章の現代におけるルイスの意味の考察も含め、本書はナルニアを介してルイスに出会う人々を、その背景の如何を問わず、惹きつける評伝となっている。(西村醇子)週刊読書人 2006年1月27日号掲載
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