マガジンのカバー画像

豊後大友家臣団の戦国ネタ

69
豊後大友家臣団の戦国ネタを書いてます。よろしくお願いします。
運営しているクリエイター

#大友義鑑

吉岡 鑑興(よしおか あきおき)

吉岡 鑑興(よしおか あきおき)

生誕 不明。死没は1578年耳川合戦の討ち死に。父は吉岡 長増(よしおか ながます)。
父の死後、1576年に大友義統(おおとも よしむね)の加判衆になっている。妻は吉岡 妙林尼で豊薩合戦で活躍し秀吉に会いたいと言わせた女傑である。
元々、大友宗麟の時に側近であったようで1569年に立花城攻略の際の雨中在陣を賞されている。
あまり活躍はないのだが三老に選ばれるところから宗麟の重臣的な立場で息子義統

もっとみる
雄城 治景(おぎ はるかげ)

雄城 治景(おぎ はるかげ)

生誕不明。死没も不明。大友義鑑、義鎮の代の家臣。

加判衆の一人で記載がある。加判衆は大友家の重臣的なポジションですがこの人物記述があまりない。地名から稙田近郊の城主とも、別府の城主とも言われますが確実な記述はありません。まさに小説にするならこの人物の視点から大友家を書くと面白いでしょう。大友義鑑の曾祖父、大友親治(おおとも ちかはる)の諱をいただいていますのでかなりのご高齢と思います。親治が死没

もっとみる
田北 鑑生(たきた あきなり)

田北 鑑生(たきた あきなり)

生誕不明。死没は1561年。

大友氏の家老である加判衆の田北親員(たきた ちかかず)の子として誕生。

1527年 佐伯惟治の乱の討伐に父とともに参陣、戦功をあげた。

1534年 勢場ヶ原の戦いでは先陣が討ち取られ形勢が不利の中、戦い。杉重信(すぎ しげのぶ)を討ち取り、陶興房(すえ おきふさ)を負傷させる戦功をあげ、大友軍の勝利に貢献した。

二回崩れの変後、大友義鎮の加判衆筆頭として筑前方

もっとみる
小原 鑑元(おばら あきもと)

小原 鑑元(おばら あきもと)

豊後国の戦国大名・大友氏の家臣である小原右並の子として誕生。初めは大友義鑑に仕え、その偏諱を賜って鑑元と名乗る。小原氏は阿南氏庶流で阿南荘小原(現・大分県由布市)を本貫とする。

1550年の二階崩れの変の際、義鑑の遺書に雄城治景・吉岡長増・田北鑑生・臼杵鑑続・志賀親守と共に連署。以後は、義鑑の子・大友義鎮の加判衆(家老)となる。同年、この大友家の混乱に乗じて隈本城に入った菊池義武を佐伯惟教らと共

もっとみる
噴死 朽綱 鑑康(くたみ あきやす)

噴死 朽綱 鑑康(くたみ あきやす)

朽綱 鑑康は大友家家臣。義鑑、義鎮、義統の三代に仕えた武将です。生誕は1502年没年が1586年。法名は宗暦(そうれき)。記録が確かなら84歳くらいの生涯を生きています。

元々は入田鑑康と名乗っており、入田親門の次男として生まれました。

大友義鑑の時代に臣下として仕えていますが、

1550年二階崩れの変で兄、入田親誠が逐電して討伐されます。次男としてはびっくりでしょうね。兄貴、何してくれたん

もっとみる
悲将 一万田鑑実(いちまだ あきざね)

悲将 一万田鑑実(いちまだ あきざね)

大友家家臣で悲将といえる武将です。生誕は不明。没年は1588年。一族謀反の疑いで処罰されています。

大友義鑑、宗麟、義統と仕えた重臣です。大友軍の要といえる武将。

しかしながらその境遇は複雑で、宗麟の時代で1553年、父、鑑相(あきすけ)、叔父、宗像鑑久(むなかた あきひさ)が討ち取られます。

これにより一族の家督を相続。妹は宗麟の側室になります。

宗麟の下で菊池義武討伐、秋月文種討伐で活

もっとみる
才徳勇猛 臼杵鑑速(うすきあきすみ)

才徳勇猛 臼杵鑑速(うすきあきすみ)

大友家の武将紹介で吉岡長増さんの後に紹介する武将となると臼杵鑑速さんでしょうか。生誕は1520年。死没は1575年。とされています。宗麟より10歳くらい歳上ですね。55歳くらい生きたのですね。大友一族の流れを持ち、大友義鑑、宗麟と二代に仕えた武将です。加判衆を務めて、豊後の三老にまで列せられています。主に外交方面で活躍しています。室町幕府との交渉、毛利との交渉、島津との交渉と大友家の外交方面を担当

もっとみる
知将 吉岡長増(よしおか ながます)

知将 吉岡長増(よしおか ながます)

大友義長(おおとも よしなが)、義鑑(よしあき)、宗麟(そうりん)に仕えた武将。生誕不明、死没も不明。おおよそ1573年くらい。となっています。三代仕えた武将なので70から80歳くらい生きたのではないかと言われています。鶴崎城、千歳城の城主。法名は宗歓。島津侵攻時に活躍した吉岡妙林尼の義理の祖父。この辺の記録があいまいです。島津侵攻、大友家改易などで記録が無くなったのかな。

1532年陶軍侵攻時

もっとみる