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豊後大友家臣団の戦国ネタ

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#大友義統

吉岡 甚吉(よしおか じんきち)

吉岡 甚吉(よしおか じんきち)

生誕不明。死没も不明。
父は吉岡鑑興(よしおか あきおき)。
1578年耳川の合戦で父が戦死。家督を継ぐ。
1586年の豊薩合戦の際、大友宗麟(おおとも そうりん)が籠城する臼杵丹生城(現:うすきじょう)を守る。二王座(におうざ)を守り戦功をあげる。二王座の兵300~500に対し島津軍3千と戦いこれの撃退。後に甚吉坂(じんきちさか)なる呼び名もついている。
大友義統(おおとも よしむね)の時代に統

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問注所 統景(もんちゅうじょ むねかげ)

問注所 統景(もんちゅうじょ むねかげ)

生誕不明。死没は1593年文禄の役での討ち死。

筑後国長岩城城主。

問注所(もんちゅうじょ)というのは元々鎌倉時代の行政機関で今でいう裁判所みたいなところ。初代執事の三善康信(みよしやすのぶ)を祖先に持ち大友氏が九州に派遣された際に同行し問注所を名乗ったそうです。

大友義統の諱を貰い統景を名乗る。1578年の耳川合戦の敗北で肥前の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が叛旗を掲げ、筑後侵攻を行う

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最後の忠臣 吉弘 統幸(よしひろ むねゆき)

最後の忠臣 吉弘 統幸(よしひろ むねゆき)

生誕 1563年。死没 1600年10月19日。
大友氏の家臣。父は吉弘鎮信。
屋山城城主。弟に田北統員(田北鎮周の婿養子)。
子に吉弘政宣、吉弘正久。
豊後高田市を所領とした吉弘一族で、立花宗茂のいとこにあたる方です。
朝鮮役で明将・李如松の軍旗を奪った功により豊臣秀吉から「無双の槍使い」と賞讃されて一対の朱柄の槍を許されていた豪傑です。

1578年 耳川の戦いで、父・吉弘鎮信が敗死し、家督を

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不明懦弱(ふめいだじゃく)?!大友 義統

不明懦弱(ふめいだじゃく)?!大友 義統

大友 義統(おおとも よしむね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての豊後の戦国大名。大友氏の第22代当主。大友宗麟の嫡男。
生誕は1558年。死没は1610年です。53歳くらいの生涯で、生まれてすぐは大名のお坊ちゃまから没落し、何度も謹慎(軟禁)生活を送って死んだ。かわいそうな人物です。個人的には嫌いではないのですが、暗愚な戦国大名5人を揚げよと言われたら。確実にその1人には入れていいでしょう。

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地雷使い? 朝倉 一玄

地雷使い? 朝倉 一玄

生誕、没年不明。いたのか?創作か?不明ですが「大友興廃記」より
記載されている武将です。
駄原(だのはる)城の城代であったそうですが駄原城という城がどこにあったのか不明です。大分に駄原(だのはる)という地名はありますがこちらは現在の大分県立図書館近辺の地名であり。大友興廃記、記載の岡城の近辺ではありません。島津進行時に急増で作った城でしょうか。七ツ森古墳群の側だという説もありますが不明です。

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馬鹿息子 大友親家

馬鹿息子 大友親家

1561年大友宗麟の次男として誕生。覇気があり気性荒く、宗麟に僧籍に入れられる。親家はこれに反して還俗。1575年にはキリシタン、ドン・セバスチャンと洗礼名を得る。後の降誕祭では町中の寺院数カ所を破壊して回った。

1579年反乱を起こした田原親貫に代わり田原氏本家を継承。田原親家を称す。1581年には加判衆となり豊前、筑後、筑前の戦に参加している。

1586年島津侵攻(豊薩合戦)の際には島津義

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行方不明 田原 親賢/紹忍(たはら ちかかた/じょうにん)

行方不明 田原 親賢/紹忍(たはら ちかかた/じょうにん)

大友義鑑(よしあき)、義鎮(よししげ)、義統(よしむね)、中川家に仕えた武将。生誕は不明ですが義鎮の若い時からの補佐役であったことから歳は近かったと思われます。大友宗麟ドラマ化なら間違いなく主役級の配役です。

死没は1600年 関ヶ原の戦いの影響で佐賀関の戦いで討ち死にしています。

父親は奈多八幡宮大宮司 奈多鑑基(なた あきもと)で兄弟に大友義鎮の正室になる奈多夫人がいます。

婚姻前か後か

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抜けがけ 田北鎮周(たきた しげかね)

抜けがけ 田北鎮周(たきた しげかね)

田北氏は大友氏の庶流で直入郡田北村を本貫にしていた武将です。生誕は1543年、没年は1578年。耳川の合戦で討ち死にです。

大友義鎮、義統に仕え、武勇に優れた武将だったようです。立花鑑載の反乱鎮圧や毛利との戦いで武功を挙げています。

耳川合戦では前哨戦の土持親成攻めで武功を挙げて、先鋒として島津軍に攻め寄せています。この勢いに慌てて島津義久は出陣して高城川で睨み合いとなります。

耳川合戦では

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噴死 朽綱 鑑康(くたみ あきやす)

噴死 朽綱 鑑康(くたみ あきやす)

朽綱 鑑康は大友家家臣。義鑑、義鎮、義統の三代に仕えた武将です。生誕は1502年没年が1586年。法名は宗暦(そうれき)。記録が確かなら84歳くらいの生涯を生きています。

元々は入田鑑康と名乗っており、入田親門の次男として生まれました。

大友義鑑の時代に臣下として仕えていますが、

1550年二階崩れの変で兄、入田親誠が逐電して討伐されます。次男としてはびっくりでしょうね。兄貴、何してくれたん

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老黄忠 立花道雪

老黄忠 立花道雪

さて、いろいろ大友家臣を紹介していますが、立花道雪こそ大友宗麟の家臣では随一の武将でしょう。

生誕は1513年。死没は1585年です。73歳の生涯を戦場に預けた老黄忠です。(老いてますます盛んという意味です。)

立花道雪といえば、雷を斬りつけて半身不随になった。娘に家督を譲った。義理息子が立花宗茂。武田信玄から訓えをこう手紙きた。などなど。

実際に輿に乗って出陣した記述があるのは1570年の

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最強 志賀親次(しが ちかよし)

最強 志賀親次(しが ちかよし)

大友親次は大友家臣。岡城城主です。生誕は1566年。死没は1660年。戦国時代には珍しく長寿の人です。94歳くらい生きています。大友後期家臣では立花宗茂に並ぶ最強の武将です。父は志賀親守。義母は宗麟の娘(正確には服部右京亮が父親)です。キリシタンで洗礼名はドンパウロといいます。19歳の時に義父の親度が主君の大友義統と不和となり失脚。家督を継承しています。

その後は1586年島津侵攻(豊薩合戦)の

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悲将 一万田鑑実(いちまだ あきざね)

悲将 一万田鑑実(いちまだ あきざね)

大友家家臣で悲将といえる武将です。生誕は不明。没年は1588年。一族謀反の疑いで処罰されています。

大友義鑑、宗麟、義統と仕えた重臣です。大友軍の要といえる武将。

しかしながらその境遇は複雑で、宗麟の時代で1553年、父、鑑相(あきすけ)、叔父、宗像鑑久(むなかた あきひさ)が討ち取られます。

これにより一族の家督を相続。妹は宗麟の側室になります。

宗麟の下で菊池義武討伐、秋月文種討伐で活

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