因果"瞬間"応報(闇のカウンセラーシリーズ/短編小説)
「井筒くん、ごめん、住浜住宅の見積書、お願いできる? 別のお客さんから急に来てほしいって言われちゃって」
在籍21年の事務員、吉野景子(よしの けいこ)は、わざとらしく両手を合わせた。
「そうなんですか、大変ですね。分かりました、やっておきますよ」
井筒晃(いづつ あきら)は、にこやかに言った。
「ありがとう、ごめんね、いつも」
派遣社員も含め、社員122人の中小企業、ストアック株式会社では、二日に一度はある光景だった。住宅用の建築資材の卸売や施工を手掛ける会社で、創業は1961年と古く、古参の社員が古き良きと目を細める独特の空気感があるが、古参と若手とのコミュニケーションは、うまくいっているとは言い難く、社長は二代目だが、頭はいいものの、気弱で、統制がゆるい。
「……」
井筒は、急ぎ足で出ていく吉野の背中を見送ると、見積書の入ったフォルダまでいき、ファイルを開いた。
(……ほどんと手がつけられてない。期限は今日)
チラリと時計を見る。
古い学校の教室にあるような、円形の時計は、16時45分を通り過ぎようとしている。見積もり依頼をもらったのは、先週だったはずだ。今日は木曜日。
「……」
漏れそうになったため息を飲み込み、井筒は見積書の作成に取り掛かった。
「大変だね、井筒くん」
一つ先輩である松下が歩いてきた。外から帰ってきたのだろう、手に持ったペットボトルは半分ほどなくなっており、煙草の臭いがして、一瞬鼻に力が入った。
「まあ、しかたないですよ。呼び出しらしいので」
「それも怪しいもんだけどね~」
松下は呆れたように言ったが、この男の仕事ぶりも、吉野とそう変わらない。一つの仕事に取り掛かるときと終わったときに、必ず外にある喫煙所に行き、仕事が長引く……といっても一時間ほどだが……ときは、間にも一服する。そのせいで、常に煙草の臭いをまとわせており、若い社員には嫌われていて、本人もそれを自覚しているが、改善する気がないのは、誰の目にも明らかだった。
「井筒さん、これ、どうすればいいでしょう……」
「ああ、これは……」
この会社で井筒のことを聞けば、誰もがこう言うだろう。
井筒さんは優しくて、頼りになる人。
人間関係も良好で、人とぶつかっているところを見たことがない、と。
井筒自身も、自分でアピールはしないまでも、理解していた。そのほうがうまくいく。思うところはあっても飲み込む。だからこそ、ちょっとした仕草にも気を使う。
「おつかれさまでした~」
他の仕事もこなしながら、なんとか見積書を作り終え、家路についたときには、20時を回っていた。地元の駅につき、電車を降りると、沸々と不満が湧き出し、家に着く頃には、頭の中は同僚や会社へのイライラで埋め尽くされていた。
「あのババア、いつもいつもふざけやがって……客じゃなくて不倫相手にでも呼び出されたんじゃねぇのかよ」
声に出ていることも気にせずに、街頭の明かりだけが照らす住宅地を抜けて、小さなマンションの入口を抜け、205号室のドアを開けた。
「おい、帰ったぞ。
……なんだ、いねぇのかよ」
同棲している彼女、角野江美(かどの えみ)がいないことに、井筒は奥歯をギリギリと鳴らした。鞄を放り投げ、冷蔵庫を開けてビールを取る。買ってきたばかりの6本セットを次々に空けて、一本飲むごとに悪態をつく声が大きくなっていく。空腹も手伝って、すべてのものが腹立たしく感じる。
「ただいま……」
6本目を手に取ったとき、江美が帰ってきた。
「帰ってたんだ、今日は早いね……」
「……」
「どうしたの……?」
「おっせぇんだよ!!!
俺が帰るまでに家にいろって言ってんだろうが!!」
「ごめんなさい、帰り際に仕事振られちゃって……」
「ち、どんくせぇな。もういいから、さっさと飯作れよ」
「ごめんなさい、少しでも早く帰ろうと思って、食材は買ってきてなくて……でもこれ、お弁当買ってきたから……」
「ふざけんな!!」
井筒は、江美が差し出した弁当を右手で払って叩き落とした。
中華の油がフローリングに広がって、香りが胃袋を刺激したが、井筒は構わず、
「おまえに作れって言ってんだよ、江美。誰が弁当買ってこいなんて言った?」
弁当を片付けようとする江美の上から罵声を浴びせた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「ほんと使えねぇ女だな。もういいよ、外で食ってくるから、金出せ。ついでにビールも買ってくるから、その分もな」
「え……?」
「え、じゃねぇんだよ。おまえが悪いんだろうが」
「でも……」
「さっさとしろよ!!」
右手を振り上げると、江美はビクっとして体を縮めた。子犬のように震えて、座り込んだ江美を見下ろしながら、財布を奪い取って一万円を抜き取ると、財布を溢れた中華の上に落とした。
「俺は、おまえがいなくてもなんの問題もねぇんだぞ? 会社でもモテるしな。おまえより若い後輩の女にも慕われてる。おまえみたいなどんくせぇ女と付き合ってる俺に、感謝するんだな」
床を見つめたまま動けずにいる江美に言い放つと、井筒は家を出た。
江美に当たることでイライラが解消されると思っていたが、余計にストレスが増えて、楽しそうに歩いているカップルを見ると、殴りたい衝動に駆られたが、目を逸らして、前から気になっていた立ち飲み屋に入った。
日本酒を頼み、一気にあおる。
考えるほどの腹立たしい。
バカばかりだ。
どいつもこいつも。
「おう、日本酒、同じの」
頭の片隅で、こんなところを会社の同僚に見られたらマズイと思いながらも、イラ立ちを抑えることができず、その分酒も進む。
「はい、おまたせしました」
「おう、あ……!」
カウンターに置かれたグラスを掴もうとした手は、掴み損なって倒れ、隣の客の前に広がった。
「ああ、すみません……」
仕事モードで謝ると、隣の男は気にするなといったふうに手を仰ぎ、
「大丈夫ですよ」
にこやかに言った。
ディープネイビーのスーツに身を包み、黒いオールバックの髪に、磨かれたダークブラウンの革靴。袖から覗く時計は、高級そうに見えるが、黒が鈍く光っている奇妙なもので、秒針もデジタル表示も見えない。
「失礼ですが、随分とイライラされているようですね」
「ん? ええ、まあ。いろいろあって」
「もしよければ、お話聞きますよ。酒が溢れたとはいえ、これも何かの縁ともいえますし」
「ふん……まあ確かに、こういう立ち飲み屋では、たまたま隣にいた人間と話すってことも、面白さの一つとも言えるのかも」
「ええ、私もそう思います。
イライラの原因は…… 彼女……ですかね」
「……よく分かるな」
「仕事の愚痴なら、同僚とってことが多いが、あなたは一人。服装も、失礼ながら仕事帰りには見えない。一度家に帰ってから出てきたのでしょう。ということは、家にいる誰かと何かあったと思われる。可能性が高いのは奥さん、しかし、あなたは指輪をしていないので、彼女である可能性が高い」
「なるほど、大したもんだ。あんた、なにもんだ?」
「私は清滝司。カウンセラーです」
「なるほどな。じゃあちょうどいいかもしれない。ああ、俺は井筒だ。よろしく」
「井筒さん。
どうも、まあとりあえず乾杯でも」
「ああ、そうだな」
グラスを軽く合わせて、井筒は代わりの日本酒を一気にあおった。清滝も同じように、ためらいなく流し込む。イタリアのバールならともかく、日本酒が多い立ち飲み屋に来るような男には見えなかったが、井筒は興味が湧いた。
「それで、彼女との間で何かあったんですか?」
清滝は、静かに聞いた。
「ああ……俺は、会社では普通に仕事をしてるが、当然いろいろストレスもある。で、家に帰ると、同棲してる彼女にキツく当たっちまう。悪いのは分かってるんだが、やっちまう……で、今日もちょっとあって、イライラしちまった」
「思ったよりデリケートなお話のようですね。
どうです? 店を移りませんか?
行きつけの店があるので、そこでゆっくり話を聞きますよ」
「へぇ、まあそうだ、立ち飲み屋で話すような内容じゃない」
「ではいきましょう」
二人はタクシーに乗って、スナック「黒鳥(こくちょう)」に向かった。
さっきは気づかなかったが、清滝は男からしても一瞬ドキッとするような雰囲気と、少し甘い香りがする。本当にカウンセラーなのかという思いが過ったが、どうでもいいと思い直した。退屈しのぎになればいい。会社の人間じゃないなら、気を使う必要もない。
「あら、いらっしゃい、清滝さん」
黒鳥のママ、真裕美が、口角を上げた。
「こんばんは」
「お二人様?」
「うん。奥の席、いいですか?」
「ええ、どうぞ。
お飲み物はどうされます?」
「私はいつものウィスキーを」
「俺は……焼酎をもらおうかな。
麦焼酎で、何か」
「承知しました。
お席にお持ちしますね」
席に着くと、清滝は井筒を見た。
「さて」
切り出したタイミングで、グラスが二つ置かれ、清滝は一口飲んで、続けた。
「彼女についキツくあたってしまうというお話でしたね。具体的には、どういったことを?」
「殴ったりしたことはない。ただ、言葉でいろいろ言っちまう。人格否定的なことも……良くないとは分かってるんだけど、つい……」
「そんなことをしたくないと思っていても、つい暴力的な言葉を言ってしまい、後で後悔するんですね」
「そうなんだ。会社の人たちに接するのと同じようにできればいいんだけど、どうも難しい。仕事でストレスが溜まってるからかな」
「仕事でいろいろあると、つい誰かに……ってことはありますからね。
ところで、彼女に仕事のことを話したりしますか? 今日こういうことがあって……というふうに、今私に話しているように」
「いや、言ったところで、分かってはくれないからな。まあ、一度だけ話したことはある。けど、それはしかたないんじゃないと言って、共感は示さなかった。確かにそうかもしれないが、俺としては、そうだねって言ってくれるだけで、スッキリするんだけどね」
「話したことはあるけど、望んだように聞いてはもらえなかったと?」
「まあそんなところだ」
「それは嘘ですね」
「なんだって……?」
予想しなかった返しに、井筒は眉をひそめた。
嘘とはどういう意味だ? 嘘だと分かるようなことは言っていないはず……
「あなたは、彼女に仕事の話をしたことなどない。自分の思い通りに動かない彼女にイラ立ち、その不安をぶつけているだけだ。仕事でのストレスを、自分より弱いものにぶつけることで発散している。子供の頃は、はけ口を動物に向けたこともあった。
彼女が自分の思い通りに動いているときには、まだ優しいが、少しでも自分の枠からズレれば、容赦なく罵声を浴びせる。そしてそれは、彼女の問題ではなく、あなた自身の問題だ」
「なんでそんな、子供のときのことまで……」
「決して自己の改善に目を向けることなく、誰かにあたり散らす……その相手がどんなに傷ついても、自分さえスッキリすればいい。
あなたはそういう人間だ。大事なのは常に自分で、自分のために周りが変わるべきだと考える、救いようのない心の持ち主」
「なんだと!! さっき会ったばかりのあんたに、そんなこと言われる筋合いは……!!」
「私が言いたいのはね、井筒さん。あなたには、今まで積み重ねてきた因果が、かなり溜まっているということですよ」
「誰かに当たり散らしたことがか? そんなこと、誰にでもあるだろ!!」
「ええ、誰にでもあります。しかし、ほとんどの人は、反省したり、悩んだりして、たとえ少しであっても、自分を改善しようとするものです。でも、あなたにはそれがない。改善するどころか、際限なくエスカレートしている」
「うるさい!! なんだおまえは……! カウンセラーなんだろ!! おとなしく俺の話を聞いて……」
店の外でサイレンが鳴り始めたのを聞いて、井筒は一瞬体を震わせた。
「なんだよ、なんかあったのか……?」
「あなたに関係あることですよ」
清滝は言った。
「井筒さん、あなたの彼女が、あなたの名前が書かれた遺書を残して、自殺したのです。警察はそれを見て、あなたを捕まえにきた。自殺とはいえ、その原因が、日々あなたに振るわれる、数々の暴力によるものだとすれば、ただでは済まない。そしてそのことは、会社にも知れ渡るでしょう。いい人で通ってきた会社でのイメージは、一夜にして崩れる、というわけです」
「な……! まさか、おまえが警察に……!」
「ですが、もしあなたが心を入れ替えて、警察に自首をして、自己の改善を図るというなら、私が警察に話して、すぐに釈放されるように手配します。
どうしますか?」
「ふざけんな!! 自殺なんて俺の知ったことか!! 俺が直接手を下したわけじゃない! あのバカ女が勝手に死んだんだろ!!」
「自分には非がまったくないと?」
「あるわけねぇだろ!! 自殺なんて知ったことじゃねぇ!!」
「……そうか」
「それより、おまえが警察に連絡したんだろ!? おまえがなんとか……」
「やはり貴様は、救いようのないクズだな」
「なんだとてめぇ……」
「Time's Up」
清滝は静かに言って、井筒の目を見た。
力が抜けるような感覚……恐怖とも不安とも違う何か、今まで感じたことがない何かを感じて、井筒は金縛りにあったように動けなくなった。
「因果応報の時間だ」
「わ、わけの分からねぇことばかり言いやがって! 俺を逃がせ!! 俺を……」
突然、清滝と店が歪んだかと思うと、視界が狭くなって、真っ暗になった。
「……!」
目を覚ました場所は、ストアック株式会社、いつもの狭くて古びたオフィス。だが、フロアもレイアウトも同じなのに、何かが違う。同僚も、見たことない人間ばかりで、暗く、全員が俯き、生気が感じられない。服も、所々が破けており、そこから覗く肌には、生傷や古傷が入り混じっている。
「なんだよ、ここ……」
「ここは、君のような歪んだ認知をもった人間を正す場所だ」
「……!」
振り向くと、ダークスーツの男が立っていて、こちらを見下ろしていた。映画で見たことがある、執事のような雰囲気だが、顔の左側には紫の痣があり、細い目は氷のように冷たい。
「な、なに言ってやがる! ふざけんな!! 俺をここから出せ!!!
……あ? ぎゃあぁぁぁぁ!!!」
ダークスーツの男に向かった怒声は、一瞬にして悲鳴に変わった。
「なに、な……」
激痛と、床を染めていく血で、井筒はその場で両膝をついた。
ダークスーツの男に向けていた右腕が突然吹き飛び、肩から大量の血が流れ、周囲の人間たちが冷たい視線を向けてくる。
「馬鹿な男だ」
ダークスーツの男は言った。
「言ったはずだ。ここは、君のような歪んだ認知をもった人間を正す場所だと。ここでは、自分のせいであることを人のせいにしたり、八つ当たりで関係ない人を傷つけようとした瞬間、その因の結果が体に返ってくる。
だが心配することはない。
痛みは続くが、死ぬことはない。血は流れるし、傷も本当につくが、翌日には傷跡だけを残して元に戻る。だが、君の認知が一定水準を越えて正されない限り、永遠に出ることはできない。死ぬことはできず、苦しみは毎日、毎分、毎秒続く」
「あの清滝って男の仕業か!? そうなんだろ!? あの野郎に合わせろ、ちくしょう……」
「口を慎め」
ダークスーツの男は、刺すような視線を向けた。
「君のようなモノは、本来あの方と話す資格すらない。もう一度”あの野郎”と口にしたら、その舌が消えることになる。二度と元に戻らない形で」
「ここまで分かりやすく自分に返ってきても、まだ自分を顧みようとしないとはね。まあ、問題はない。その場所では、同じ日が繰り返される。翌日に進むには、自分が変わる以外に方法はない。できないなら、苦しみが永遠に続くだけだ。決して慣れることのない、痛みと苦痛が。
すべては自分次第」
人気がなくなった公園で、清滝は夜空を見上げた。
隣には、同じように空を見上げる江美の姿がある。
「あの、彼は……?」
「あなたは何も心配しなくていい。もう理不尽な痛みや暴力に怯えることもない」
「彼は、死んだんですか? 私、そこまでは……」
「生きてるよ。
もしかしたらいずれ、あなたの前に現れるかもしれない。でもそのときは、彼は別人になってるから、怖がることはない。安心して、自分の人生を取り戻すといい。あなたはきっと、彼が戻ってきたとき、今よりもっと、笑顔が似合う人生を生きてるだろう」
「清滝さん……」
「そう、その笑顔だ」
清滝は笑顔を返すと、公園をあとした。
江美もまた、変わらなければならない。同じような男に引っかからないためにも、自分と向き合う必要がある。だが、問題ないだろう。彼女はもう、前を向いている。
「さて、飲み直すか」
清滝は呟くと、黒鳥に足を向けた。
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