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昔、ポジティブ信者だったときの話

■ポジティブに考えることは本当に人を幸せにするのか?

昔々、その昔、一人のネガティブな男がいました。
その男はとにかくネガティブで、物事をあらゆる角度から悪く考え、自分に緊張と萎縮を与え、自己否定によって心に生傷が絶えませんでした。

そんなある日、一冊の本に出会います。
本には「ポジティブに考えることで、すべてはうまくいく」と書かれており、男は苦しみから逃れるために本を読み、実践し、ポジティブ思考を身につけました。

嫌なことがあっても前向きに考え、苦しいと思っても「大丈夫、できる!」と言い聞かせ、歩き続けました。その甲斐あって、男の人生は少しずつ良くなっていきましたが、ある日突然、生きることからも「やる気」がなくなってしまい、心は崩壊寸前。男の運命やいかに……

と、少々大げさに始めてみましたが、「その男」というのは、僕のことです。

僕は昔、ポジティブに考えるという発想がほとんどなく、「ポジティブに考えれば……」という本に出会ったことで、ポジティブ思考に傾倒していきました。

結論、ポジティブであることは悪いことじゃありません。
というか大事です。
でも、ポジティブになろうとあれこれする、そのやり方が間違ってると、メンタルぶっ壊れるのです。
明るい顔してメンタル壊すって、怖いですね……w

今回は「昔、ポジティブ信者だったときの話」と題して、ポジティブ信仰の闇について、お話します。

■ポジティブに考えればうまくいく……のか?

10年前(もうちょっと前かな)とかに比べたら、今はそれほどポジティブであることが正しいとは思われていないと思います。でも、たとえば仕事でトラブルが起こって、どうしようってなってるときに「ポジティブに考えよう」って言われたら、まあ確かにそうしないと解決しないよね、ということはありますし、ポジティブに考えることが悪いわけではないんですが、大きなリスクが二つあります。

一つは、ポジティブで感情を上書きして、自分の中に生まれてきた感情を無視、あるいは否定すること。
もう一つは、「大丈夫、うまくいくから」と考えて、立ち止まって考えずに進んでしまうこと。

ポジティブで上書きというのはたとえば、鬼上司に企画のプレゼンをしないといけないとき、またボロクソにいわれたらどうしようと体が震えているのに、「いや、大丈夫、怖くない、不安もない、俺は大丈夫だ」と言い聞かせるようなことです。

それの何がダメなの? と思うかもしれませんが、外部から無理やり「大丈夫」と声をかけるのは、一時的にはともかく、長くはもちません。↑の例でいうなら、プレゼンはできても、やってる最中に出てくる不安とか恐怖で、内容に集中できず、相手が怒ってるかもしれないとか考えて、萎縮するだけになります。そして次回も同じように苦しむ。

ほかだと、たとえば友達が何かしらの理由で大きな不安を感じているとき、「大丈夫だよ、なんとかなるって」と声をかけるのも、問題が発生する可能性があります。

一見すると正しいように思いますし、優しさの現れのようにも見えます。確かに声をかけている本人からすれば、なんとか励まそうという思いやりの気持ちであることがほとんどでしょう。が、相手が本気で不安をもっている場合、まずはその不安を受け止めてあげないと、不安をさらに強くさせてしまうことになりますし、相手からすると、自分の気持ち分かってくれないという印象にもなります。
励ませばいいってもんじゃないわけですね。

立ち止まって考えずに進んでしまうほうは、目の前にある、見なきゃいけない問題を見ずに進んでしまうので、たとえば道を歩いていて、暗くてよく見えないのに、「まあ大丈夫っしょ」と歩いて石に躓いて転ぶようなものです。石が落ちてるかもしれない、と考えて、よく確認して避けるルートを考えないと、思わぬ怪我をすることになります。

ポジティブに考えればいいというのは、間違っているようには思えないし、そう言われたら、違うとか嫌だとかおかしいとか言いづらいものだと思いますが、表面的にやるのはむしろ、リスクのほうが大きいんですね。

それでもひたすら信じてしまうとどうなるのでしょう?

■ポジティブ信仰がもたらすもの

いつでもどこでもポジティブ! ネガティブは排除せよ! みたいなところまでいくと、考え方というより信仰に近くなってきます。

ポジティブ信仰ですね(カルト怖い)。

ここまでいくと、病みます(冒頭で書いた僕のように)。

何があってもポジティブに考えてなんとか乗り切ろうとするのは、自分が感じている感情を無視、あるいは否定することに繋がり、それは、心の悲鳴、声を無視しているということにもなります。まったく自分の気持ちを汲んでいない。

痛いよ~と言ってるのに、

「痛いとかないわ」

「痛いと思うから痛いんだよ」

「それおまえの気合が足りないからだから」

と、どっかのブラック企業の営業が言いそうなことを、言い方を変えて自分で自分に伝えてるようなものです。

信仰は、一時的に心を救ってくれますが、現実を変えてはくれません。
現実を変えるには行動が必要で、必要な行動をするためにはネガティブを否定するんじゃなく、向き合わないといけない。嫌だし、しんどいんですが、もし今の状態に何かしら不満があって、変えたいと思うなら、向き合うしかないわけですね、憂鬱でも。

たとえば、自分の体型に不満があるとして、変えたいと思ったら、食べる物と食べる量を変えて、運動習慣を作る必要がありますが、当然のようにしんどいです。だって、今まで好きで食べてたものを制限したり、別の食べ物に置き換えたりしなきゃいけないし、運動も大変。さらに、変えたからといって、一週間かそこらですぐに変わるわけではなく、変化を実感するには一ヶ月以上はかかる。

大丈夫、痩せられるって思うだけじゃ変わるはずもないし、しんどいって気持ちを無視してもしんどさがなくなるわけではないし、痩せ薬使って痩せたとしても、生活習慣が同じなら、いずれ元に戻ってしまいます。

ネガティブを排除すればうまくいくというのが、そもそも幻想なのです。

■ではどうすればいいのか?

慣れるまで大変だし、慣れてもしんどいものはしんどいですが、もし強い不安を感じたら、思い切って目を見開いてしまうことをオススメします。

そんなおっかないことできるわけない……と思うかもしれませんが、不安や恐怖が一番力を発揮するのは、僕らが「こうなったらどうしよう」「きっとこうなるに決まってる」と、頭の中で想像したときです。
つまり、外部から行動を制限されてるわけじゃなく、内側から生まれた想像に行動を制限されているわけですね。

でも向き合ってみると、不安の正体が見えます。
人がたくさんいるパーティみたいな場所は怖い……と思ったとき、怖いから行かないと考えるか、大丈夫うまくいくと考えるかで行動は変わりますが、どっちもあまり良い結果にはなりません。
前者は、今までと何も変わらない。後者は行動してるだけいいかもしれないけど、正体不明の恐怖をもったまま会場に行って人に話しかけても空回ったり、疲れて帰っただけ、なんのために行ったんだということになります。

でも向き合って、

「何が怖いんだろうか?」

と見ていくと、場所が怖いのではなく、人と話すことが怖いわけでもなく、馬鹿にされるかもしれないという思いがあるから怖いと感じてるんだ、そしてそう考える理由は、過去に行ったあの異業種交流会で、変な奴に絡まれたことだ、というふうに、自分が今もっている感情が生まれた理由まで探っていけます。

そこまでいけたら、それが事実かどうか、検証です。
確かに、トラウマになった出来事は事実でしょう。そして、同じような変なやつがまたいるかもしれない。でもズームアウトしてみると、感じよく話してくれた人もいたし、仲良くなった人もいた。ってことは、人が集まる場所そのものは、必ずしも怖い場所ではない、ということに気づけます。トラウマの部分をズームインして、人がたくさんいるとこと=変なやつに絡まれる場所というふうに思い込んでいただけだったと。

そこまで分かったら、じゃあちょっと行ってみようかなと、イベントが検索できるアプリで興味があるものを見つけて参加してみるとか、次のアクションを起こせます。最初はドキドキするでしょうけど、行ってみたら楽しかった、ということにもなります。変なやつに絡まれるリスクも残りますが、そこは受け入れるしかない(これもまたネガティブに慣れること)ですね。

これは、そもそも怖いからやらないという選択肢からも、ただ大丈夫と言い聞かせるという選択肢からも生まれてこない結果です。

不安や恐怖を否定することなく受け止めて、正体を知り、事実を確認して、対処する。
その繰り返しが、自分を前に進めてくれます。

でもやっぱりポジティブって大事じゃない? という方は、↓を読んでみてください。
ポジティブを否定するわけじゃなく、かといってポジティブを信仰するわけでもない、本当に大切なことは……

まやかしのポジティブ プロローグ(小説)

まやかしのポジティブ マガジン


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