デカルトにダウトを

凄く伝わりづらいと
思うのだけど、
最近、考えていることを。

我思う故に我あり

は、これ以上ない真理だと
デカルトは言った。

本当にそうなのだろうか。

コギト(意識)みたいなものは、
自分だけのものじゃなくて
どこかで全て
繋がっているのではないかと
密かに思う。

人の自意識は
進化の中で人類が手に入れた
機能の集合体という説がある。

神経心理学では
自意識は次の機能の集積だとされる。

①人生の記憶
②性格の要約
③感情の把握
④事実の知識
⑤連続性の経験
⑥実行と所有感
⑦内面の精査

生存の為にこれらを
一つずつ、手に入れてきた。

その全てが合わさって
自意識、或いは自我なるものが
あるように
人は感じている。

ビッグバン後、
エネルギーが拡散していく方向に
全てが宿命付けられ、
地球誕生後、
生命が誕生したレールの上に
誰もが今現在存在しているのだけれど、
その一瞬の煌めきが
自分的なものを生んだだけで
やがてその宇宙の摂理に帰すだけ。

また、これは環境や教育にも
左右されると思う。
自分などというものを
意識しなかった時代もある。

今は自分、自我、自意識があることが
たまたま前提になっている時代。

それに、
詳しくはないが

仏教の悟りは
自他の区別なく全てが繋がる、
というか無に溶け合う境地
と言われる。

人は人生の約三分の一を
寝て過ごすが、
その時間すら
自意識などというものは
緩む。

自分なんて
本当はないんじゃないか。
そして、
無い方が幸せなんじゃないか。

そんなことを
この頃よく思う。

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