矢沢永吉氏からもらった夢 『成りあがり』『BIG』少年時代に俺もいつか永ちゃんみたいになりたいと…思ってた
こんにちは、Hideです(^_-)-☆
私の人生において最も影響を受けたのは、矢沢永吉さん永ちゃんです。
1978年(昭和53年)訳もわからず買ったレコード「時間よ止まれ」から始まりました。
永ちゃんの半生を綴った激論集『成りあがり』をワクワクして読みました。
「俺も永ちゃんみたいに、BIGになりたい!!
まだ14歳だったHide少年に大きな”夢”を与えてくれたのでした。
そして、45年が経過したいまでも、私の人生に大きな影響を受けて、現在に至っております。
音楽面だけではなく、人生においても我が師匠と呼べる人は、矢沢永吉氏だけです。
今回は14歳で永ちゃんに、出会った頃から始まり、『成りあがり』から永ちゃんの言葉や考え方など、衝撃的に心を揺さぶられたものを、お話していきたいと思います。
永ちゃんこそ スーパースター
中学2年生の時に、永ちゃんの音楽に出会い、成りあがりを読み、その生き方に感銘を受けました。
18歳で、スーパースターになる為、広島から夜汽車で横浜に出てきて、幾つかのバンドで下積みを経験して、CAROLでデビューした永ちゃん。
永ちゃんの幼少時代からスターになっていくまでの経緯が、人間臭く決して格好良く書かれていない正直なところが特に良かったです。
まだ純粋だったHide少年が『成りあがり』を読んで、時に涙したり、熱く心が燃えたり、とにかく14歳の純真な心を揺さぶられました。
これまでには感じた事のない感覚でした。
きっと永ちゃんもビートルズに出会った時は、そんな感覚だったのでしょう。
当時は、家庭用ビデオも普及してなく、インターネットも無く、テレビにも出ない永ちゃんに会いに行くため、地元に来たコンサートにも行きました。
その頃の矢沢氏は全国ツアーを主なる活動にしていて、ヒットチャートに上がってもTV出演は拒否していました。
ライブに行ったのは、動いている永ちゃんをこの目で観たかったからです。
最初、生でライヴを観た時は、体に電気が走るくらい衝撃的でした。
それまではライブのレコードを聴く程度しか出来なかったのに、生で動いている永ちゃんを観れたのですから、感動でしたね。
昭和の時代はそんな感じだったのですよ。
今のようにロックは世間に浸透していなかったし…
昔のレコードを揃えていったり、本を買ったりする度に、なんか永ちゃんに近づいていける感じがしました。
『成りあがり』を読んで永ちゃんの言葉になるほど~
そうかそうかと思いながら、その一つ一つが自分の中に刻まれていくようでした。
私にとって真のスーパースターは矢沢永吉永ちゃんだけです!
世間はまさに矢沢永吉が大ブーム 日本のロックもメジャーになった
日本ロック歌手初の武道館公演を達成したわずか1年後、永ちゃんは今度は後楽園球場でライブを行いました。
これももちろん日本ロック歌手史上初の快挙でした。
永ちゃんは、後楽園球場と東京ドームの両方でLIVEをした数少ないミュージシャンの一人です。
5万人の聴衆を集め3km先まで、その歓声が届いたという伝説が残っている。
その年は資生堂のCMソング「時間よ止まれ」がミリオンセールスを記録。
矢沢永吉という歌手の名を世間に轟かせました。
テレビのチャート番組からの出演依頼を拒否。
ひたすらツアーで町から町へのライブ活動が中心でした。
してその勢いのまま、後楽園球場でのコンサート。
後楽園ライブのちょっと前かな、「成りあがり」の発売は。
もう世の中は矢沢永吉一色でしたね。
しかし、武道館公演を成し遂げた時には、まだこれといったシングルヒットも無い状態での武道館超満員だったのですね。これもまた凄い。
”E.YAZAWA”のタオルを肩にかけた若者が、集まった後楽園球場は異様な空気に包まれていたようです。
この様子は秋頃に、テレビでも放映されました。
当時の流行のファッションは、黒のTシャツに白いタックパンツ(ツータック)でした。
そしてヘアースタイルは、MG5もしくは柳屋のポマードでリーゼントでした。
後楽園球場でのMCでの名セリフは「今日はみんなイカしてるぜ!最高!」でした。
よく真似しましたねその言葉。
永ちゃんNHKに出演 熱い思いを語る
永ちゃんのファンになって2年が経った中学を卒業する頃、永ちゃんがNHKの「若い広場」よいう番組に出演したのですよ。それも教育テレビの。
NHKのスタジオで、無精ひげ姿でたばこを吸いながら、熱く語る永ちゃんは、ライブで観るのとはまた違ったカリスマ性を感じました。
それまでのミュージシャンって、多くを話すような人はいませんでした。
正直、ロックミュージシャンの割には、ずいぶんと良く話す人だな~という印象でした。
「成りあがり」に書いている熱い話をテレビでもしているから、これまた喋っている内容にも偉く衝撃を受けました。
その番組何度も再放送されたんですよ。
ビデオデッキの無い時代でしたから、せめて音だけでも録音しようと、テレビからカセットテープに録音したものです。
特に印象に残ったのは、ソロデビューして間もない頃、長崎の佐世保にツアーで行った時に、観客が少なくスタッフが、雨の中無料のチケットを町で配ったとの話でした。
結局200人位しか集まらずその観客たちに
「今日ここに来た人達は幸せだ、こんな素晴らしいYAZAWAを観れたのだから、俺がもし辞めたらもう二度と観れないんだぞ、一生懸命歌うから最後まで楽しんでいってくれ」
とMCで話した事。
その出来事を永ちゃんは”リメンバー佐世保”と名付けたそうです。
そしてその事件で絶対にスーパースターになってやるとの思いが強くなったと。
アーティストとしての凄い執念と意気込みを感じました。
そのテープを、まるで講演を聞くように何回も聞きましたね。
まさに師匠の話をもらさず自分の中に取り込みたいと思う一心でした。
丁度その頃、永ちゃんの映画「RUN&RUN」も公開された頃でした。
ちなみに、この映画のキャッチコピーは
「方向を失った時 人間は一番苦しい 俺には音楽があった。」
何故か、その映画は映画館で観ることがなく、後にDVDで購入して観ましたが、1979年のナゴヤ球場でのライブの様子を中心にした映画でした。
当時は、ファンも若く、観客同士の喧嘩や、会場の備品を壊したりするファンがいて、会場拒否問題が起こっていました。
私が最初地元の県民会館に観に行った時も、かなり厳しい規制がかかっていました。
開演前には、館内放送で注意事項を知らされ、緊張しながら開演を待っていた記憶があります。
ライブ中に立つことは禁止で、拍手も胸の前でだけで頭の上でしてはならない等かなり厳重なものでした。
私が観に行った時も、演奏中に興奮したファンの一人が席を立ってステージに寄りかけた時には、演奏が止まり警備の係員がすぐさま、そのファンを席に戻しました。
会場の観客は約8割は男性で、結構怖そうなお兄さんがいましたね。
その後80年代に入り、段々と女性客も増えてきました。
綺麗な方が多かったのも、実際私が会場で実感した事実です(笑)
その後は永ちゃんのファンへの声掛けもあり、演奏中に立つこともOKになりました。
タオル投げは、確かアルバム「東京ナイト」が発売された1986年の”Feelin' Come Ha~Ha”ツアーから始まったと記憶しています。
最初にタオル投げが起こったのは「止まらないHa~Ha~」だったと思います。
「トラベリンバス」はその後にやり始めたはず。
永ちゃんの事を話すと止まりません(笑)
またの機会にもっとお話ししたいと思います。
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