80年代 日本のエンターテイメント 映画も音楽もプロモーションで広がる
こんにちは、Hideです🎞️
1980年代、アメリカではアーティストのプロモーションビデオが流行し、そこから波及して映画と音楽のコラボレーションで、両方のチャネルをヒットさせていました。
日本も1970年代の終わり頃から、どうやって大衆にウケるのかを様々な業界で考え始めたのではないかと思います。
角川映画がその最も代表です。
出版会社が小説本を売る為に、映画化して小説の宣伝として活用、かつ映画でも収益を上げる。
当時、角川書店の社長だった角川春樹氏はそれまでの日本映画界のイメージを大きく変えるきっかけを作った人物と言えるでしょう。
80年代前半は、角川映画出身の人気女優達が活躍して、日本の芸能界に新たな風を吹き込んだ感じです。
今回は、80年代前半の日本の映画や音楽について、高校時代から二十歳過ぎまでリアルタイムで観てきた感想などを当時の思い出などを交えながらお話ししていきます。
高校生の天才女優がヒット映画を連発
70年代から自社の小説を映画化してヒットさせてきた角川映画でしたが、自前で映画を作る施設もないので制作費が嵩み大きな利益を生み出せませんでした。
80年代に入ると角川社長は、アイドル映画路線へと方向転換を行います。
薬師丸ひろ子を中心に、原田知世、渡辺典子の”角川三人娘”と呼ばれた、女優を主役に抜擢して、多くのヒット作品を世に送り出しました。
81年の正月映画の『セーラー服と機関銃」は当時の興行収益を塗り替え薬師丸を大スターへと押し上げました。
この映画は、私も高校2年生の時に封切りで観ています。
赤川次郎の原作もユニークで気楽に映画を楽しめたのかなぁと感じた作品でした。
83年には、三人娘のひとり原田知世主演の名作「時をかける少女」がヒット。
翌年、渡辺典子も「晴れ時々殺人」で主演をつとめました。もちろんヒット作になりました。
この三本の映画は、すべて主演女優が主題歌を歌いました。
薬師丸の「セーラー服と機関銃」は、大ヒットして当時のザベストテンという人気の歌番組にも出演して歌唱。
原田知世も、ユーミン(松任谷由美)が作詞作曲してこれも大ヒットしました。
当時の原田は幼くて、歌もおぼつかなかったように見えましたが、曲のクオリティーは高かったです。
その後の知世ちゃんは、ライブをするまで音楽性が上がりましたよ。
結局角川は映画の宣伝効果もあり、自社の小説の販売成績を上げることに成功して、おまけに所属女優達の歌まで大ヒットさせたのです。
活字を映像化して、そこから歌まで誕生させてしまったのです。
当時としてこの現象は、かなり画期的なことだったのです。
前回話題にした米国の「フットルース」商法よりも先のことですから、奇才と言われた角川春樹氏は、やはり凄い人だったのですね。
82年公開の角川春樹氏自ら初メガホンをとった監督作「汚れた英雄」でも、ローズマリーバトラーの歌う主題歌が劇中で何度も流れました。音楽も同時にヒットさせたいという気持ちもあったのでしょうね。
角川氏自体も歌が好きだったのではないかとも思います。
まぁとにかく80年代前半といえば、角川映画と薬師丸ひろ子がエンターティメントの中心にいたと言っても良いでしょう。
当時は、聖子や明菜といった若い歌姫が大活躍したアイドル全盛の時代でしたが、そことは一線を画していたのが角川関連の作品と女優達でした。
角川春樹事務所は先進的にプロモーションに力を入れて成功した
先ほど紹介した「汚れた英雄」も、ライダーが世界中のセレブから資金を調達してのし上がっていくという物語なのですが〜
小説も〇〇編といった感じで何冊も出版されている長編大作でした。
映画のおかげで、小説も販売冊数を伸ばし、当時若手イケメン俳優俳優だった草刈正雄を主演に起用して映画も大ヒット。
私もオールナイトで観に行きましたが、草刈正雄演じる北野がすっごく格好良いのです。
小説のストーリーよりも、男のダンディズムの方を前面に出したストーリーでした。
バイクレースの世界で、大規模なバイクメーカー率いるチームには所属せず、プライベートチームで世界中のサーキットで自分の名前を記録に残したい、という野望を抱く若きライダーの物語でした。
世界的に有名なデザイナーや大手外資の会社の令嬢などセレブの彼女(スポンサー)が何人もいました。
そのうちのひとりの女性から「貴方は、ガソリン補給の時しか私のところに来ないのね」なんてセリフが印象的でした。
都内の一等地に、プール付きの大豪邸を所有、プライベートチームで次々にレースで勝つ。男が憧れる生き方に格好良さを感じてましたね。
そのチームのスタッフに、奥田瑛二や浅野温子がキャスティングされていました。
映画としては酷評されてましたが、高校生の自分には主人公像が格好良くてたまりませんでした。
バイクレースで世界中で活躍して、美女達にはモテまくる、なんて若い男の子からしたら本当にヒーローに見えましたね。
そして作品の宣伝効果に対する意識が高い角川氏の実現力は凄かったです。
劇中で何度も主題歌が流れていたのもそうですが、レースシーンの撮影場所に、当時の角川のスター女優薬師丸ひろ子を招いてロケしたのには驚きました。
実は、この映画のレースシーンのロケは、宮城県の仙台市郊外にある村田町のスポーツランドSUGOというまだ出来て間もないレース上で行われたのですが、そのレースの観客のエキストラを集めるために薬師丸をこさせたのです。
田舎の山奥まで、当時のシネマスターの薬師丸ひろ子を〜
社長命令だったのでしょうね。薬師丸も当時私と同じ高校生で夏休みでしたし。
とにかく今までやったことのないことを、ある意味ワンマン社長として試みていきましたね。
一つの時代を作った人ですね、角川春樹氏は。
ヒット作連発 80年代を引っ張った角川事務所
一年に何本も映画制作を精力的に行なった角川映画。
81年の「蒲田行進曲」は日本アカデミー賞を総なめしました。
83年の「里見八犬伝」も巨匠深作欣二監督と鎌田敏夫脚本で、当時の人気俳優を多数起用した豪華キャストの大作でした。
もちろん大ヒットしました。薬師丸ひろ子と真田広之のW主演でした。
音楽担当は、当時吉川晃司やその他多くのアーティストに曲を提供したNO BODY(元矢沢永吉氏のバックバンド)で時代劇の中で、ロックな音楽がより物語を盛り上げていましたね。
主題歌はアメリカの有名歌手のションオバニオンを起用するといった力の入れようでした。
角川氏が、出版界、音楽業界、映画界といった垣根を見事に取っ払ってくれた人でしたね。
現在では、ジャンルや業界の垣根を超えたコラボレーションというのが当たり前になりましたが、当時はしっかりと区分けされていた時代ので、かなり画期的だったと思います。
高校生だった私にもそれは、なんとなくでも感じさせてくれました。
80年代、エンターテイメントの変革時期だったことはこれでお分かりになると思います。
そんな時代に青春時代を過ごせた私は幸せでしたね。
こればかりは、お金では買えませんからね。
煌めいてた青春の思い出の1ページです。
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