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「ライフ・アクアティック」の感想。

フレンチディスパッチ、グランドブダペストホテルに続いてこのライフアクアティックと、ウェスアンダーソンの映画を遡るように見てきたけど、今まで見た中ではこれが断トツで面白かった。

大まかなあらすじ

有名な冒険家、キャプテンズィスーは、親友を食い殺したジャガーザメを追うドキュメンタリー映画を撮ろうとしていた。
突然あらわれ、ズィスーの息子を自称するネッドや、ズィスーの独占記事を書こうとしている妊婦の記者ジェーンが探検隊に加わり、船は出航する。
海賊に襲われたりなんやかんやで大変な道中、果たしてズィスー達はジャガーザメを見つけられるのか!

あらすじを書けばこんな感じになるんだけど、しかしこのあらすじはこの映画のことを何も伝えられていない。

完璧な映画、完璧な冒険とそのしょうもなさ

この映画には、ウェスアンダーソンの映画の完璧さが隠し持ってる「しょうもなさ」についての自己言及がある。

一般的な事実として、冒険の末に秘境に辿り着いた主人公を正面からカメラで映すとき、実は主人公よりもカメラが先に秘境に足を踏み入れている。僕はこの当たり前の事実の持つしょうもなさがとても好きだ。
(更に例を出すなら、テレビに、甲子園で負けた球児達が泣きながら土を集める様子が仰ぎ見るような画角で映されているときの、それを撮っているカメラマンの体勢とか、そういうのが好き)

何かを撮ろうとする時点で選択が、つまり作意が発生し、ある尺に収めようとする時点でも作意は発生する。完璧さを追い求めるウェスアンダーソンの映画にはずっと、そんな作意が生み出すしょうもなさが漂っていたんだけど、この映画ではそのしょうもなさを、演出の入りまくったドキュメンタリー映画の撮影の様子の中に、よりはっきりした形で入れ込んでいた。

ドキュメンタリーも作品である以上、つまり誰かが見るものであるという前提がある以上、作意から逃れることはできない。
そんな風に、他者からの目線にずっと囚われてきた男が今回の主人公、キャプテンズィスーことスティーブだ。
作中で何度か流れる"Life on mars?"は繰り返される映画にうんざりした女の子の歌。
スティーブにとって冒険とはつまり自分が活躍する映画で、"だけど彼はそれにうんざりしている"ということがこの曲で暗示されている(ただし、うんざりしていることに彼自身が気付いているかどうかは定かじゃない)。うんざりしているのにも関わらず冒険を止めることができないという性が、彼について考える上で最も重要な要素になる。

クライマックスでスティーブは、親友を食い殺したジャガーザメと再会する。
観客達の前でスティーブは演じることをやめられない。もはや自分が落ち目の老いぼれであるとしても演じることをやめられない。
しかし、ジャガーザメはカメラの介在しない海中で親友を食べた。そこではスティーブは、肖像画に描かれるようなキャプテンズィスーとは違う存在だったはずだ。
なので、我々からすらも隠匿された画面の外で彼と出会ったジャガーザメだけが船長でない彼を知っていて、だからスティーブはジャガーザメと再会したときに「私を覚えてるかな?」と泣いた。キャプテンではない自分と関係してくれる存在は、ネッドが居なくなってしまった今、もはやこの美しいサメしか残っていないのだ。

なのでスティーブの最後のセリフは諦観と共に発せられたはずだ。「全ては冒険だ」
スティーブにとっては、やはり全てが冒険(=映画)で、彼は今後も、もはや時代遅れなキャプテンズィスーを演じていかなければならない。だから彼はバカみたいな赤いニット帽を被って、「ホウ」と挨拶するのだ。

しかしこのラストに救いを見出すとするなら、彼がトロフィーを置き去りにして、子供を肩車して歩き去っていったことに注目するべきだ。
彼は今回の冒険でようやく、誰のために演じるのかという根っこの部分を見つけた。
その発見は、周囲にイヤリングをバカにされたズィスーがそれを投げ捨てたときに、イヤリングを拾ってきてくれた息子、ネッドがいてこそのものだったはずだ。

ちなみにネッドには全く魅力を感じなかった。しかしこれは、(特に映画の終盤付近までは)画面全体にスティーブの主観によるフィルターがかかっていたせいであって、意図的な演出によるものなので仕方がない。
それでも序中盤の薄ぼんやりした彼の様子には結構イライラした。


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