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ひとりひとりに宿る宇宙に自覚的であれ - 日本に住む人々の宗教観とは -

おとのカウンターは決して良い木の材料を使ってないんだよ。

と、おとの内外装の施工を全面的に仕切ってもらった建築会社の跡取り社長でもあり、僕の親友でもあり、そして何よりも酒が呑めない男が言った。近頃モヤモヤとしているということで、それなら会って話をしようと、おとに誘った夜が始まる頃だった。

僕は人の話については都合が良いことしか聞かないというか、都合良く聞いてしまう癖があるので、その後彼が正確にどう言ったかは覚えていない。ただ、彼が当時、僕らの予算が限られている中で精一杯考えて、彼の技法や技量を勘案した上で選んでくれた材料であるということと、やり切ったものの後悔が残らない訳ではないということが、彼の“言葉”として僕という媒体の中に残っているだけだ。

最近、色々な人と話をする中で、それがある程度成熟した会話、つまり表層ではなく本質について語るような内容に踏み込んだ時に僕は良く下記のような考えを伝えている、ように思う。

日本人は精霊のような存在なのではないか。

神と子の間にいるのが精霊であるならば、日本に住まう人とはまさにそういった存在であり、たまたま人の言葉を操ることができるようになったのではないかと考える。

日本という地域に住まう人々にとって神とは唯一絶対神ではなく、自然そのものでありそれは具体的な形を持たず、あらゆる場所や形而上にすら存在し、時には恐ろしい災害となって我々の前に姿を現す。

八百万の神について、現代に生きる人であってもその多くが上記のような認識もしくは感覚を持っているのではないだろうか。一方で、神がそれを認める対象へ具体的な“恩恵“を与えることについて、その独特さについて考えたことはあまりないかもしれない。

僕の西洋的宗教観についての認識としては、神が唯一絶対であり、原罪を持って生まれた人々が悔い改め続けることを見護り、その結果として死後の世界で免罪するというものだ。「赦し」という概念がその根底を構成している。その代わり、現世において神は何かを与えることはない。「赦し」の源となる”愛“以外は何も。そうすることで、自然や精霊や動物たちとは一線を画した存在として生きていくことができる。自然や精霊や動物たちを意図的に失くしても構わない。なぜならそれこそが”人“を定義する”罪“であり、それは”赦される“ものだからだ。

日本という地域に生まれたものたちは、そうではないメカニズムの中で生きることになる。なぜなら、日本古来の宗教観には”人“という存在が明確に定義されていないからだ。日本の神話では神はきわめて俗世に近い価値観や行動をする。そして、その神はいつの間にか水や火や穀物などに簡単に相を超えた転移をしてしまう。”人“と”神“と”精霊“という存在が極めて曖昧なものとして語り継がれているし、僕らも程度の差こそあれどこかでそれを信じている。

自然から完全に離脱していない日本に住まう人々はその豊かな恩恵を五感を通じて具体的に受けることができる。いや、存在そのものがそういったものだからそれは「当たり前」でもあり「有り難い」ことでもある。

一方で自然を破壊することは神を破壊することであり、そしてそれは子としての自分をも害することになる。極めて精霊的なメタファーがそこにある。日本という地域に住まう人が持ち続けてきた倫理観はこの辺りに根っこがある。

おとのカウンターについて語る彼は、同時に精霊である。

観察し、思考し、行動し、反省し、味わう行為の中にどれだけ精霊性を持たせることができるか、そこに日本に住まう人々のこれからがかかっている。誰もが一日の中で人という機能に依り、遣う、その中に個別特定的ではない慣性力のような揺らぐ光のようなものを認める。

そこに宇宙がある。

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