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教育の無償化が優生政策であるにも関わらず弱者がそれを支持する矛盾

理論物理学、統計物理学を科学史や地政学とともに学び直しているのだが、学び進めるうちに、私たちが認識できる範囲でのこの日常は確率統計的なものであり、それは素粒子レベルの超ミクロの動態から、社会における様々な出来事、問題、さらには人間そのものの個性についても適用可能なのではないかと確信に近い思いを得るに至った。

そして、それは自分自身が幼少の頃からずっと感じていた、人間社会の気持ち悪さを説明する理論的裏付けとなり、かつ解決の糸口になるのではないかという期待をもたらした。

しかし、人間という生物を規定する個性の成り立ちについては、遺伝子による遺伝の作用によるものが大きいだろうから、遺伝について調べ、学ぶきっかけとして、下記の本を読んだ。

人間の個性を規定するにあたり遺伝がどの程度作用しているのか、そしてその遺伝に遺伝子がどのように関わっているのかについて科学的に解き明かすためには有意と呼べる数のサンプル、すなわち人間を集めて、その個性の発動を観察する必要がある。これが行動遺伝学で、科学の中では比較的新しい部類に入る。作者の安藤氏は日本の行動遺伝学における権威であり、この本は彼自身の研究とともに、過去の欧米を中心とした研究の歴史を踏まえて、現時点で行動遺伝学が解き明かしたことについて非常に分かりやすく書かれている。

書かれている内容の詳細については読んでいただくとして、自分として気になった部分について、自分自身の考察とともに触れる。


今までの研究によれば、「人の固有な能力や個性、そして精神的なものも含めた各種の疾患のほどんどは遺伝子によって決定される」というもので、「その発現は家庭環境ではなく外部環境によるところが大きく」、また「現代社会は極度な知能社会であり、知能を司る遺伝子の良し悪しが生涯収入を決定する可能性が高い」という残酷な結果が突きつけられる。

残酷なのは、「現代社会が極度に発達した知能重視社会である」という部分だ。他の要素について考えると、「人は生まれながらにして固有のギフトを遺伝子という形で悠久の歴史の中で継承されており、それを自分と異なる才能を持った集団の中で発揮することで、ひとつの個性として幸せに生きていくことができる」と言えるからだ。

人間の個性はそれぞれの遺伝子によって生まれならにして規定がされている。そのそれぞれが伸びる環境にそれぞれが存在することが、多数の個にとっての幸せに繋がるということだ。しかし、世の中は個性の一つの要素でしかない知能について優劣を競うことが唯一の基準として構築されている。結果、この社会における競争を勝ち抜くためにはいかに知能を伸ばしていくかという議論に収斂していくことになる。教育の無償化が最たるものだ。

教育の無償化という考え方自体が悪い訳ではない。問題なのは、この「教育」というものが今までと変わらない知能についての教育を対象としているからだ。知能には当然ばらつきがある。知能教育についての機会を平等にした結果として誰もが教育を受けられる状態になるとどうなるか?結果として、知能に関する遺伝子の優劣の差がよりばらつきの大きいかたちで浮かび上がることになる

では、全ての個性を規定する教育について無償化すれば良いじゃないかということになる。これは理論としては正しいが、実現することが難しい。なぜなら、人の個性というものはそれこそ人の数だけある訳で、無限にある個性について教育を行うこと自体が現実的ではない。


過去の研究結果が示唆していることは、人の個性というもが遺伝子と家庭以外の外部環境によって決まる以上、人は自分とは似ていない環境に飛び込んで遺伝子の喜びを感じ、その発現に向けて全力を注ぐべきなのだ

ところが、人はリアルだろうがネットだろうが、ますます似たような人々と一緒に過ごし、情報の海の中で流行り廃りという波を目の前に一喜一憂する生活を過ごしているように見える。

もちろん集団の中で他の個性を圧倒するような絶対優位を持つようなものを持つ、もしくは発現させた人は少ないかもしれない。それでも、ある絶対優位を持つ人の近くにいることにより、その人の絶対優位を最大限に発揮させるために、自分の個を発現させることに意味がある(これを"比較優位"と言う)かもしれない。結果として自分の個を発揮し、絶対優位を世の中に問うことは十分な喜び足り得るのではないだろうか。


こういった世界は、江戸時代で終わってしまったように思える。人はみな生まれながらにして個性で名を呼ばれ、壁の薄い世界で常に他の個と一緒に過ごす中でそれを発現し、生涯の生業とし、それが嫌なら究極の思考の結果としての脱藩、駆け落ちという訳だ。

現実社会が知的エリートによって支配され、広告メディアによって巧みに隠された簒奪によって成り立っているということに自覚的になることがスタートライン。そこから、知能以外の個性が生きる別の次元を社会の中にどう築き上げるのかがチャレンジ。このチャレンジを続け、結果を出さなければ、知的奴隷社会は永続する。

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