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唯一の社会的行為としての自殺を選択せざるを得ないキレイな世の中で生きるということ

高校生の女の子が相鉄線に飛び込むところを自身のTwitterアカウントで配信しながら自殺したニュースがあった。

報道では彼女は父親から性的虐待を受けていた疑いがあり、かつ学校でいじめの対象になっていたそうだ。

真偽の程は分からないし、飛び込み自殺をすること自体、そしてそれをSNSで配信することについては当然ながら色々な意見がある。

しかし、彼女のTwitterアカウントでのつぶやきを遡って見ていくと、死を切望するほどに辛い現実社会と、そこから逃げることができない苦しさ、そして死にたいものの、死ぬことについての本能的に恐怖を捨て去ることができない葛藤が痛いほどに感じられる。

彼女が死を選び、その瞬間を、誰もが見たくないと言うが、心の中では見たいと思うその瞬間を、もっとも拡散力が高いSNSで配信したのは、誰からも必要とされていない現実世界の自分を変える唯一の手段だったのかもしれない。誰からも必要とされていないということは、自分の存在自体に意味を感じられないと考えることになる。

自分の存在に意味がないというところから抜け出す手段を手に入れられるということは、本能的な死の恐怖をギリギリで乗り越えられる。

自殺するということが彼女にとって唯一の社会的行為であり、
そして、”生きる”という行為そのものであった

ということだ。皮肉だけど。

逃げ出す先があれば良い。ひとりでも社会的な行為に参画できる場所、それがたとえ社会的規範から逸脱した場所、組織であったとしても、いやむしろその方が良い。その中で、必要とされ”生きる”ことを少しでも確認することができれば、唯一と思い込んでいた手段を手放すことができる。

それがかつては不良のたまり場だったのかもしれないし、古びたゲーセンだったのかもしれないし、歌舞伎町の風俗店だったのかもしれないし、暴力団組織だったのかもしれない。

そういった場所はどんどん無くなっている。どうしようもない奴らが生身で、裸でただただそこで社会的には意味が無いと思われている行為をする場所がどんどんなくなっている。政治的な正しさという名の下の綺麗事をまとい。

今、僕らは試されている。

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