クーロン

言語化以前に思考力 - 1960年代のテレビと現代のインターネットに共通する簒奪の構図 -

上記の流れで、

東京ミッドタウン日比谷のHIBIYA CENTRAL MARKETにて、有隣堂が手掛けるBOOK CAFE的な一角で、有隣堂副社長の棚に入っていた新書に目が留まり、

この「哲学のすすめ」という本を買った。

初刷が1966年で、自分が手にとったのは2017年の第82刷。僕がこの本に価値を見出したのはこの点で、書かれている内容、すなわち自然科学が台頭しつつある世の中における哲学の必要性とその理由、考え方については自分にとって目新しいところはなかった。一方でこういったことにあまり触れて来なかった人々にとっては十分意味はある。


さて、初刷の数ヶ月前、1965年12月付けの”まえがき”の内容を引用する。自分にとってこの本の価値は、この”まえがき”がすべてだった。

わたくしどもなどの年輩のものが、旧制の高等学校の学生だったころは、文化系の人も理科系の人も、とにかくいちおう、哲学的ないし思想的書物を読んで、人間いかに生きるべきかという問題を、真剣に考えたものでした。しかしこういう傾向は、このごろではむかしほど一般的ではないように思われます。
これには、いろいろの原因が存するでしょう。戦後とくにはげしくなった入学試験の準備のために、若い人たちが「考える」余裕をもたなくなってしまったのかも知れませんが。あるいはテレビなどの普及によって、人々が受動的な態度にならされてしまって、自発的に「考える」ことをしないようになったのかも知れません。しかしなんといってもいちばん大きな原因は、社会全体がただ直接実際に役立つもののみを求めて、どう生きるべきかという根本的なことがらを、それが直接役に立たないという理由で、無視しているところに求められるのではないでしょうか。

この文章ほもちろん1965年当時の状況を反映してのものだが、内容としてはテレビの影響に加えて、インターネットの影響を加えればそのまま今現在にも当てはまるのではないだろうか。

昨今、言語化と言う言葉に触れることが増えてきたが、言語化力以前に思考力を鍛えるべきで、思考、すなわちこの本を引用すれば主観としての価値判断を伴わない言語化は情報量を増大させるだけで、簡潔に言えばそれを再び熱量に変えて世の中の役に立てることなどできないのではないか。


自分は小さな頃から、家庭も含めた周囲の環境に違和感を感じることが多く、その原因が何であるのかについて因果関係を把握するために、観察をし続けて生きてきた。観察をして相関因果関係を分析するだけではその結果自体についての蓋然性について確証が持てなかったため、否が応でも表現をして他者にぶつける必要があった。

小さい頃はドラえもんのキャラクターを借りて、それらが社会の矛盾の中で軋轢を生み、時にはぶつかり、殺し合い、場合によっては一方的に虐殺するような世の中の不条理の集大成のような漫画を描いていた(結局、眉をひそめた親に捨てられたのだが…)。

大学時代は茨城の片隅ではほとんど誰も聴いていないような音楽についてのレビューを当時黎明期だったインターネットの中で配信していた。同時に、日本の地方にある古びれた町並み、特に旧赤線地帯などを訪問しては、その名残りを写真にとどめ、感じられた風情と歴史との関係、現在目の前に広がる景色についての解釈など、まとめて公開していた。

シンクタンク、戦略コンサルティングファームを就職先に選んだのも、そこが観察、分析、表現の総本山であると思ったからで、その判断は間違いではなかった。一連のプロセスについての猛者だらけの環境であることは間違いなく(その結果がすべて価値提供に繋がっているかどうかは別議論として)、徹底的に叩き込まれた。


テレビを見て知った気になる。インターネットで検索して出てきた内容を読んで知った気になる。知識を手に入れることは非常に簡単になった。

一方、結果、結論としての知識を簡単に手に入れることができる現世に生きる人々は、その結果、結論を生み出してきた思考の過程、思考を生み出す前提となった観察、観察をする際の前提条件などについて省みることがなくなった。知恵が無くなった。知恵をベースとした価値判断についての議論がなくなった。

人々が知識のみを持ち歩いているのであれば、それは機械で代替できる。むしろ機械の方が質・量ともに人々を凌駕できる上に文句も言わないのだからありがたいことこの上ない。

我々の大部分は、我々の祖先の偉大な哲学者が歩き始めた「思考することこそが人間の本質である」というところから随分と遠く、そして茫漠としたところまで来てしまったのだ。

その秘密を知っている一握りの人間がこの世の中を支配する。

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