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物静かで論理的な資本家と、非論理的で雄弁な革命家 - 繰り返される"議論の体を成したポジショントーク" -

誰かも書いていたけど、黒船によってZoomなどの遠隔でも対話ができるツールの利用が広がって来ているのは素晴らしい一方で、議論ができる人とできない人との差を如実に感じるようになった。

普段、空気を共有することによって非言語の部分でカバーされてきたことが、遠隔ツールではカバーしきれないためだと思われるが、リモート疲れしている人は恐らく論理と言語の世界での議論に慣れていない人に多い印象がある。

この差は結構絶望的な断絶を予想させる。

言語・論理系に強い人間は企業や社会においても確固たるポジションにあって、コロナの影響を受けにくい一方、弱い人々はそうではなく、かつ影響を強く受けた結果として当該ツールをむしろ遣わされる側になっている。

こういうことが善意のコミュニケーションの中で起こったりするからもの凄い矛盾が噴出してるように感じる。

個人的にはこういう残酷なカオスは過渡期で面白いけどね。

とSNSに書いた。

きっかけはFacebookやYoutube等で流れてくる友人・知人関係も含めたいくつかの動画番組を観たことだ。

コロナの影響で活動が制限される中、各自が家にいながらにして社会に対して何らかの価値の提供を行うことを考える良い機会になっているということだろう。


そこで、こういうやり取りに出会った(具体的内容は脚色済み)。 

まずケース1

ゲストA:世の中はもっと多様であって良い、多様であることで成り立つ生態系もある。多様であることを許容するためには、社会的に大きな取り組みが必要であり、それは民間ではなく公的な部分での価値提供となるのが良いのかもしれないと思っている。

ホストB:東京はみんなが気軽に集まれる場所が少ないですからね。


また別のところでケース2

ゲストC:感性と科学については、それぞれを極めたところに立った時に同じ感覚を共有することができると信じている。

ホストD:結局は座学では分からないですし、体験して感じるることが一番んですよね。


この異なる2つのケース、議論が噛み合っていないことが分かるだろうか?


ケース1では「多様性が良い、多様性を生み出すには公的な大きな取り組みが必要、あなたはどう思います?」という問いかけに対して、「気軽に集まれる場所が少ない」という事実が返されており、

”多様性が必要が良い”という仮説についての意見と、”そのために公的な大きな取り組み”が必要であるという具体的な方法が示されていることに対して、答えの位置づけが良く分からない。


ケース2では「感性と科学を突き詰めれば同じ場所にたどり着く=感性と科学は両立する」とゲストが言っているのに対し、ホストは共感しているような答え方で「感性が最も重要である」とゲストの意見を完全に否定している


どちらのケースでも議論、対話はそのまま進んでいく。そして、視聴者は特に何のコメントも発することは無かった。もちろん友人同士の時間つぶしのようなただのお喋りであればそれで良い。

しかし、社会的意義のあることを起こそうとして、問題提起をしつつその解決策を模索するという過程の中で視聴者の時間をいただくのであれば、その議論、対話については、感性だけでなく、科学(論理)的にも始まった時と終わった時とで、結論に一歩でも近づいていることを示すことこそが価値のあることではないだろうか

さらに言えば、議論、対談の体をなしていながらに、実はホスト側のポジションでの主張を世の中にぶつけるだけという姿勢がそこから見えてしまうのであれば、それは傲慢であること以外の何ものでもない。もちろんそのような態度を否定はしないが、そうなのであれば本人1人でやれば良い。ゲストを呼んで議論、対談の「ようなこと」をする必要はない。


物静かで論理的な資本家と、非論理的で雄弁な革命家という構図を繰り返すのは、歴史を学ぶ人類としてもあまりにも滑稽な行為じゃないだろうか。


ということで、下記の記事を参考にしていただければ。

アディオス。


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