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進撃の狂人は勧善懲悪ユートピアの夢を見るか?
橘さんの本は良い。教科書にしても良い。
そう、小学生の。冗談じゃなく。
本当に人は本を読まなくなったよね
身近な人と接していても読書量が多いなと感じる人は少ない。現代は多種多様な情報を、無数のメディアからインプットすることができる、まさに情報の海なので、まとまった時間の集中力を要する読書は敬遠されてきているのだと思う。それは時代の流れとして仕方がない。
一方で読書から得られる知識とそれをベースとした思考の深さと広さは凄まじい。Youtubeなどの短編解説動画を複数繰り返し見たところで同じレベルに到達することはできない、と断言できる。
Youtubeは短時間での知識のインプットには向いているが、それを思考に繋げることが難しい。一方読書では、著者が過去の事象を参照もしくは、それを束ねて思考した結果が流れる文脈の中で、興味を持った瞬間に自分自身の思考の世界に没入することができる。
思考することこそが社会を形成する人類の証
であるにも関わらず、考えない人が多い。物事の事象に対して感情的に受け止める、何か反応するとしても脊髄反射になるため、考えている人間の戦略・戦術にハマる。結果として、当人の便益や承認は果たされず、不安だけが募ることになる。
不安は不満となり、不満は結果に対する反射ではあるものの、因果関係についての思考を伴った解決策とは程遠いため、建設的な意見にはならない。その不満が積もり積もっているのが、この瞬間における極東の島国なのだろう。
勧善懲悪のユートピアを目指すファスト思考
しかできない人のようなものを橘さんはバカと呼んでいる。
人の子なんだから他人の気持ちが分かるはず。だからこそ、人を思いやる気持ちが集まることで、人々は幸せになれる。
非常に聴こえは良いが、現実的には実現することはできない。なぜなら、世の中には様々な幸せの定義と、それぞれの幸せに至る方法論があるからだ。
具体的には、上記の定義と方法論の組み合わせについての大雑把な分類として、ネオリベ、リバタリアン、リベラル、コミュニタリアンという群体が存在するが、このすべてが最終的に歩み寄ることはできない
言ってる意味は分かるだろうか?
港区的な議論に終始するインターネット
日本におけるFacebookは非常に視野狭窄的なメディアに成り下がっている。簡潔に言えば、東京在住、もしくは東京社会圏に属する一部の人間が、東京23区で起きている先端的な事象を大きな声で叫び、そこに同様の属性を持つ人がエンゲージする構図だ。
東京で起こっている議論は、東京のオフィスとプライベート空間を前提として語られていることが多く、それは地方における大半の人々とは相容れない世界であることは、以前下記にも書いた。
地方に生きる人は、積極的もしくは消極的選択の結果として都市圏に出ていくのを諦めた人たちであって、彼・彼女たちに港区的な意識の高さで論じてみたところで、呆れられるに違いない。
幸せの定義とそこに至るまでの方法論が違うからだ。
読書をしない狂人、バカに向けた本、という矛盾
人によってそれが異なるということを前提とするのが多様性を認める議論であり、それを抜きにして完全なる幸せな世界を目指すのであれば、もはや狂人であろう。そこまで至らなくても、恐ろしく不安になったりすることになるはずだ。繰り返すが、彼・彼女たちは望んでも手に入らないものを夢見ているからだ。
そういった意味で極論になってしまうが、この本は狂人、バカになりかけている不安に駆られた人々に向けたものということになるのだろうか。もしくは、自分のように世の中についての仮説があってそれを証明しようとしている人間にとっての考証の材料として存在しているのかもしれない。
いずれにせよ、社会的動物である人というものが、彼・彼女たちが構成する社会というものがどういう前提と予見を含んでいるのかについて、入門書として良い本だと思う。
もっと奥へ進みたい方は、下記へ。
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