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モノの移動量がヒトのそれを凌駕した時、モノはヒトとなりヒトはモノとなる - 2020年に東京に住むリスク -

今、浅草おとの場所を活用した新しい事業として、”ニュータマリバ(仮)”の企画を行っている。

企画は、僕らおとのメンバーと、

”はじまり商店街”のメンバーが一緒になって、チームとして取り組もうとしている。


その中で、僕がこの場を使いながら一部を解決しようと思っている課題がこれ。

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意味分かる人どれくらいいるんだろうか?そして、先に言っておくけど、この概念を理解して、課題としてある程度共有することができる人と僕は一緒にいようと思うし、仕事をしていきたい。あえて言うけど、そうではない人とはできるだけ離れて、いや接触せずに暮らしていきますので、さようなら。


離れた距離の異なる要素どうしが情報を巡らせることにより、ある形が出現する。それはある一瞬だけ出現する波形のようなもので、そしてそれ自身が新たな意識であるとするならば、過去から現代において人間は新たな意識の獲得を歴史の記憶とともに放棄してきたことになる。

レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロが描いた壮大な世界、ステンドグラスとして造形された幾何学模様と鮮やかな色合い、デカルトが数式と思想を同時に操り、モーツァルトが奏でる旋律には数学的な要素が含まれている。手塚治虫が現代社会の大半をはるか昔に予想し、大友克洋がAKIRAの中で2020年の東京オリンピックの出現を予言する。

森羅万象はカオス系によって成り立っているとするならば、それを整理し、解像度を上げて見つめ、人間の意のままに操ることを実現してきたのが近代以降の人類であるとすれば、果たしてその先にある未来はいつの日か、この瞬間に実現することができる世界が来るのではないだろうか。

そう、カオスの系が整い、解像度が上がるということは、標準化されたアルゴリズムのみがそこにあるということに他ならない。すなわち、すべてがそのアルゴリズムに収束されることになる。それは、現在であり、未来でもある。アルゴリズム自体は安定状態にあるから、何も変わらないからだ。

このアナロジーを宇宙大で考えると、ビッグバン以前の世界に逆戻りしているようにも思える。ビッグバン後の壮大なカオスが、再び完全なる平衡状態に収束されるということを意味しているのではないだろうか。

カオスに挑戦したかつての人類は、混沌とした世の中で最大の刺激を脳、それも皮質や視床で受け入れ、固有の波形を意識として生み出し、解像度を上げた状態で定義付けし、それを大脳の無意識下の記憶に刷り込んできた。そして、かつての賢人の意識は、大衆の無意識としてコンピューティングパワーの中で処理がなされ、人間は無意識下の活動ですら、シリコンの世界に置き換えようとしている。

果たして、それを”人”と呼べるのであろうか。

カオスの名残りはそれでもまだ世界に散りばめられている。宗教の経典であったり、特定地域に伝わる住所とは異なる古い地名であったり、祭りの所作・祝詞であったり、書籍であったり、老人であったり、といったものだ。これらの歴史的カオスを司る要素にアプローチするためには、移動をしなければならない。

そして、今を生きる人々は移動すら行わない。

かつて、例えば江戸時代を生きる人々の移動量は現代人の移動量の総量と比べて多いか少ないか。もちろん産業革命以降、動力を活用した移動手段が出現したことにより現代人の移動距離の方が多いかもしれない。しかし、移動量に知識や知恵に変換できる情報量をかけ合わせた積で比べるとどうであろうか。

更に、現代に戻って考えると、人の移動量と機械を含めた物体の移動量とを比べた場合、圧倒的に後者の方が距離が伸びているのではないだろうか。人がモノを取りに行く時代ではなく、モノが人の方にやってくる。人が人に会いに行くのではなく、ボタンを押せばすぐに会える。そしてその原動力はモノの動き(発電等)によって成り立っている。

モノや情報の移動量が人間のそれを凌駕する時代。そしてそれらは人の欲望の細分化された形としてケイオティックに分散配置されているということは、意思を持った人はそこには存在せず、意思を持ったモノが、人のレプリカとして存在するということになるのではないだろうか。もちろん、その仕組を支えるのは無意識下で動くロジックとしてのアルゴリズムだ。


バカには理解できないだろう、という意識もなくアルゴリズムは電車を動かし、そこに大量の”人であったものたち”を乗せて、所定の動作を行う。いや、行ってきたのが今まで。かつての賢人たちが楽しんだカオスを彼らが同じように楽しむ世界はもうすぐそこまでやってきている。

疫病や戦争が無くなった一方で自然災害が多発し、考えられないような事故が増えていることは、偶然によるものではない。2020年を東京で過ごそうとしている人々は、かすかに残った”意識”を生み出す脳の機能を使ってもう一度よく考えて欲しい。

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