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善意と善行が祈りと赦しを破壊する - 不条理と議論なき社会が目指す絶望 -

日本人の宗教観について以前に書いたことがる。

ここで書いたのは、欧米文化圏では絶対的で超自然である神に対する「赦し」があり、日本では八百万(やおよろず)の神があちこちに物質的に存在し、「有り難い」と感謝する構造だ。構造こを違えども、それは神ではない「人々が間違いを起こす存在である」ということを前提としている。間違いを起こしながらも、赦されたり、感謝することによって、日々を省みつつよりよく生きていくという"システム"になっている。

人は、聖人君子ではないから人なのであって、行なっていることが全て正しいとは限らない。そして、この社会は人や設備、組織、コミュニティなどの要素が複雑に関係して構成されているため、全ての人にとっての正しさというものについて唯一の答えを出すことはできない。家族にとって正しいと思ったことが、社会にとって正しくない可能性がある。過去に正しいとされてきたことが、現在ではそうではないとされることもある。故に、社会で生きることを選んだ人は、常に過ちを犯すことになる。人は常に罪の意識に苛まれることになる。その意識を積み重ねていけば、常に正しいことができないというジレンマで心は壊れていくだろう。


欧米と日本を含むアジアで"神"の構造は違えども、犯した罪を思い出し、それを外に「告白」することで、社会の中における精神的な平衡を保ってきた。その「告白」が欧米では「懺悔(赦し)」であり、日本では「感謝」であった。

欧米におけるそれはもちろん教会でも行われる一方で、ユダヤ教に代表されるように家庭で行われることもあった。ユダヤ教は口伝の結晶であり、旧約聖書の内容と、その抽象的な中身についての"議論"を日常的に行い続けることによって、人は反省し、未来に向かって生きることができる。経典に書かれる抽象的な事象について議論をし続けることによって、宗教が思考として日常化されているが故に、"そのシステムとしての宗教"の価値が認められ、教会などの象徴的な"場"も保存されていくことになる。

このあたりについては下記の本が入門編としておすすめ。


一方、日本人が"神"を絶対的、超自然的な対象として認識しておらず、むしろ日常的で自然に属する"存在"として向き合ってきたことは上述の記事の通り。神はそこら中にいる。植物にも、石ころにも、人の所作にも宿っていた。日本人はそういった"事物"に対して"感謝"をすることにより、社会との折り合いをつけてきた。"事物"の背景としての自然現象というのは不条理で、かつ人の力ではとうてい扱えるものではない。しかし、そこからの恵みを受けて生きている、生かされているのだから感謝しましょう、ということになる。


その祈りであり赦しの対象が日本の中から消えていっている。街や村の社寺仏閣であり祠であり、前述したような道端の植物であり、石ころであり、現実的ではないトマソンであり、不条理とも言える組織であり上下関係であり、めんどくさいとも思える人間関係であり、そして街や村そのものである。正確には日本だけでなく世界の先進国からなくなりつつあるのだが、欧米世界では経典や口伝としての宗教が根付いているために、その補完関係の象徴としての建造物や街・村もすぐにはなくならない。恐ろしいのはそういった宗教観に乏しい極東アジアの国々だ。


効率化という言葉とともに非合理はなくなっていく。平等という言葉を乱用するポリティカルコレクトにより不条理はなくなっていく。結果として、日本を含む極東アジアに暮らす人々が日々感謝をして赦されてきた対象が、善行の名の下になくなっていき、そして最後は心のないロボットが、それも最新鋭とも言えないスペックとともに街を徘徊することになる。

手塚治虫が、大友克洋が、宮崎駿が、作品の中で伝えたものは何なのか?テリー・ギリアムが、マーティン・スコセッシが描写したのは一体私たちとどのような関係があるのか。ボルツマンがなぜ最後に孤独な自死の道を選んだのか。

考えることを諦めない人々は絶望して人間として死ぬ。
考えることを諦めた人々は希望をメモリに焼き付けロボットになる。

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