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「利他の精神」がもたらす死屍累々の世界 - 房総半島で起きていることと都会の満員電車の関係 -

台風15号の東側(右側)暴風圏に入った千葉県の房総半島は、南房総市、館山市など未だに深刻な被害の影響下に置かれているようで、台風被害が発生する前に予約していたJR東日本のロードバイクトレイン"B.B.Base”も、君津から先の正常運行が確保されていない中、運行中止、全額返金となった。僕は房総半島行きは諦め、三浦半島には予定通り向かうことにした。

そう言えば昨日は9.11だった。NRIに新卒入社して2年目だった自分は、テレビで繰り広げられる非現実的な光景を目の当たりにし、たまたまつけたチャンネルで特段興味の無い映画が流れていたような雰囲気で驚きも悲しみも、特段の感情を持つこともなく、翌日の会社では11月にはテロに対する厳戒態勢を採るハワイへ予定通りバケーションに行った。

東日本大震災の当日、まさにそれが発生した直後に、僕は長崎空港に降り立った。上海現地法人の60数名を引き連れた社員旅行の初日だった。天草や雲仙、ハウステンボスを回る旅程を組んでおり、予定通りに消化した。初日夜の宴会を除いて。後日談だが、旅行先の第一候補は東北地方、当日昼過ぎに仙台空港に降り立つ予定だったが、自治体からの補助金額などの諸条件が折り合わず、長崎・熊本行きとなっていた。

先月、僕は日本企業に対するM&A案件の投資家候補である中華系シンガポール法人のボスに会うために香港経由で深センに入った。メディアやSNSの情報を見れば、初夏の頃から始まった香港のデモは過激化の一途をたどり、街の中心から外れた香港空港にもその余波が広がっており、一部の情報では自分が行く日、まさに空港を占拠するデモ活動が行われる可能性が高いというものもあった。自分は旅程を変更せず、粛々と深センに向かったが、平和そのもので何も起こらなかった。そして、任務を終えて日本に戻ったちょうど翌週に空港占拠が行われ、空港機能が一時的に失われた。

ここ一ヶ月の話だが、築地と豊洲市場を結ぶ埋立地界隈をロードバイクで走っていて産業廃棄物業者のトラックと接触事故を起こし転倒した。埋立地を結ぶ橋は緩く長い高低差があり、周回することで斜度3度程度の坂を延々とのぼることになり、軽いヒルクライムの練習に向いている。そこで、歩道の自転車レーンを走っていた自分は、トラックの左折巻き込みで接触した。自分の感覚としては身体もバイクも大したことはなかった。産廃業者の若い男性とはお互いに過失を認め、警察を呼び、法規に基づいて告訴することもなく、保険会社を利用することもなく、互いの仕事や故郷のことを話し、笑いあい、最後は握手して別れた。

僕の人生に対する態度がこういったエピソードに現れている。自分が病院嫌いで、診断や予防などを忌避していることは自分に近い人間なら皆知っているが、同じことに起因する。

台風の影響を心配し、テロの犠牲者に哀悼を捧げ、震災について思いを馳せ、香港の市民を心配し、いつ起こるか分からない事故や事件、病気について不安に思う。

尊いことだと思う。

一方で、自分がコントロールできない(と思われる)範囲のことについてまで過度に憂慮し、効果が期待できない、もしくは効果を起こすための論理が存在しないことについて、怒りを覚えたり、憤ったりすることは、人間が生きていく上で、意識や感情、さらにはその影響を受ける身体にとってあまり良いこととは思えない。そういった人々は、いつも何かに不満があったり、イライラしたり、怒っていたりしており、傍から見てもあまり幸せそうには見えない。

人のためになるから、自分が犠牲になる。

このことを「利他の精神」とは呼ぶことは論理的にできない。自己や意識と他者との線引きは明確ではない(できる人がいれば証明して欲しい)。その中で、「自分が犠牲になる」ことの意味をよくよく考えて欲しい。「自分」という存在が外部環境と明確に線引きができない以上、それを犠牲にするということは、どこかで他者も犠牲にしているということを意味する。

そこには犠牲者しかいない。

台風が直撃し交通機関が麻痺すると分かっていて大混乱状態の構成要素となる。その状態にイライラしつつ、房総半島の惨状を憂う。

犠牲者しかいない世界に明るい要素を見出すことができる人がいるのであれば教えて欲しい。「人のためになる」ことと「自分のためになる」ことの定義は曖昧であり、そこに犠牲を伴う行動や感情的な動きは必要ない。ただ、「自分を含めた”人”のために、自分を含めた”人”が楽しいことをする」ことこそが、「利他の精神」となる。

共感は必要だが、必要以上に自分が痛む必要はない。
共感を逃避の手段として使ってはいけない。
共感を安売りしてはいけない。

自己の意識と他者の意識を明確に切り分けることができない以上、対象に共感するということは同一化するということであり、対象との社会的・論理的客観性が失われる。そうすることでペインやアンガーや無力感を得ることはできても、そこから何かを創造することは難しい(できないとは言っていないが、その場合は当事者と同じかそれ以上のペインやアンガーを引き受ける覚悟が必要になる)。何かを適切に行うのは「外」にいる意識や認識による客観性の働きが重要になるからだ。

僕の考え方はリバタリアンそのものであるかもしれない。イーロン・マスクやZOZOの前澤さんが危険思想であると捉える向きもあるかもしれない。一方、リベラルが分裂し、プア・ホワイト(マイルド層)とも相容れないコミュニスト的な世界観が生まれつつある(残りはリバタリアン化する)中で、彼・彼女たちは果たしてリバタリアンが考えるよりも、世界全体の幸福の最大化について考えていると言えるのだろうか。

意見を聞かせてください。

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