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人類史上ないほどの便利さの中で何故若い子たちは不安で仕方がないのか

小泉首相のインテリジェンスとして活躍された佐藤氏の記事が面白かった。現代人は豊かであるにも関わらず不安に押しつぶされている。というのが前提となっており、不安を解消するのは”金”であり、"教養"すら"強要"される。

確かに、最近自分のところに相談にやってくる若い子たちの話を聞いていても、不安にまつわる話が中心であることが多い。

では、現在の日本社会はそのような不安で満ち溢れているのだろうか、そしてそれは僕らが彼・彼女たちと同じくらいの歳だった頃と違うのだろうか?

僕らの頃は失われた10年の真っ只中で氷河期に見舞われ、企業への就職すらおぼつかない時代だった一方で、今はむしろ人手不足だ。

当時は電話線(銅線)をベースにしたパソコン通信に毛の生えたインターネット環境にダイヤルアップ接続(今の子たちには分からないだろうが、接続に失敗することも多い)をしていた。一方で現代では、インターネット回線はほぼ無料となり、さらにコンテンツやコンテンツを製作することを含めた価値を生み出すためのツールなども、限りなく無料に近づいている。

例えば僕らがその時に好きな音楽と似たような、もしくはルーツを辿るような作品を探そうと思った場合、インターネット上の先達が開いた"ホームページ"の"リンク"を辿り、ようやく手に入れた手掛かりを元に、西新宿のレコード屋まで2時間弱をかけて電車に乗って行った。それでも"外して"満足の行く買い物ができず、失意で帰路につくことも少なからずあった。

例えば、自分の世界観を表現するための音楽を製作して世界に配信することは、誰にでも門戸が開かれている。僕らの時代では100万円じゃきかなかった。そしてそんなお金を若くして手に入れることはほぼ不可能に近く、脳内で楽曲を再生するのだ。そして、やはり電車に乗ってクラブへ行って、僕の世界としての脳内楽曲とその場で流れる音が繋がる、その魔法のような一瞬を待ち望むのだ。

現在は情報が溢れている。そして、上記のリンクにもあるように、情報の大半は広告という仕組みで流れてくるため、今の子たちは常に「あなたの好きなもの、もしくは好きになるべきものが、ここにあって、いくらで買えるよ」と言われ、「そうしないと大変なことになるよ」と煽られ続けることになる。

僕らにとっての情報とは、無関係の生身の人による「好き」を凝縮した独りよがりなものだった。それを、この世界の片隅にいる僕らの「好き」が発見していく。それはとても選民的で、時には恋に近い雰囲気を纏った甘いものだった。

それがいつの間にか、情報がお金というガソリンで駆動され、「好きにならなければいけない」という強迫観念とともに、向こうからひっきりなしに押しかけてくるようになった。

不便な時代の向こう側に「好き」を発見できた僕らと、
便利な時代に「好きであるべきこと」を強要され自由を奪われる君たち

どちらが不安であるかは語るまでもない。

「好き」の中でストラグルしてきた僕ら、おじさん、おばさんはそれでも言うんだ。インターネット回線を捨てよ、街へ出よう。

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