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一体何してる人なんですか?クスリでもやってるんですか?と言われて考えたこと

浅草おとの主に3, 4Fを含めてのリニューアル構想として「ニュータマリバ(仮称)」という場を立ち上げるべく、令和元年となった2019年の終わり頃から”はじまり商店街”のみなさんと議論をし続けています。

浅草おとは”カオス”の象徴、これは僕が当初おとを始めるにあたって強く意識をしていたことです。それは、自分の人生で数回、カオスの極地に近い状況を体験し、その中で自分が時空に溶け出していくような得も言われぬ体験をしたことがベースになっています。

一つはフィッシュマンズの渋谷クアトロでのライブであり(新宿リキッドだったかも)、FC東京が奇跡の逆転勝ちを収めた川崎フロンターレ戦のゴール裏であり(似たような経験も東京ダービー、アウェイでもあり)、中国で仕事をしていた際に広州のKTVで机をなぎ倒してステージに立ち、マイクでそこにいる中国人全員に「お前らと俺らは友達だ」的なことを絶叫した経験であることは、以前にもどこかに書きました。まあ、最後のやつはその直後に失神して後頭部から倒れて病院に担ぎ込まれて緊急手術となる訳ですが(当時ご迷惑をかけた諸先輩方、同僚、友人、親族には心からお詫び申し上げます。特にこの事件を知った直後に辞表を書いた直属の上司には…)。

フィッシュマンズについては下記をどうぞ。


話が逸れましたが、こういう経緯もあっておとは”カオス”の象徴です。少なくとも僕の中では。そして、はじまり商店街さんは”つながり”の象徴なんです。同じく僕の認識では。

カオスの中でつながる
そして価値創造する

これを仮説として、具体的にそれをどう実現するのか、その中で時空としてのおとの上層階で何ができるのかということをずっと議論し続けている訳です。

はっきり言ってはたから見れば面倒くさいし、お金になりにくいと思われるようなことを散々議論しています。目の前にある困ったことで、すでに顕在化したニーズをテクノロジーで解決することを考えた方が単純ですし、価値も出せそうですし、何より分かりやすい。でも、そうしない。そういうひねくれた大人たちの集まりです。

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僕の中では確たる仮説があるので、このチームの中では仮説をたたき台に議論をリードする役割を担いつつ、周りの意見ももらって更にそれを抽象化し、仮説をブラッシュアップするという役割を自然と担っています。

抽象化する時に役立つのは、自然科学に基づく万物に適応可能な理論としての法則(仮説ベースも含め)と、概念図や絵です。今回の議論にあたっても概念を絵のような形に3枚作っていきました。そのうちの1枚は下記のようなものです。

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これは、時間がどう流れるのかというフッサールの考え方にヒントを得て、この瞬間に存在しているある個人が、固有にどう定義されるのか、まあ簡単に言うとその人はなぜその人として存在し得るのかということを概念として描いたものです。

フッサールは時間の流れについて、事物の記憶によって成り立っているということを考えた訳です。時間はその記憶の蓄積として感じられるものだと。だから、人によって時間の流れ方は異なりますし、場合によってはある個人の中でも記憶の順序や感覚に規則性が無いので、時間に対する感覚は特定の事物とそれ以外との関係性の中で相対的に「揺れる」ことになります。これは、僕らの実感値に近いことです。

僕は少しその考え方を拡張していて、記憶がある事物に紐付いており、その事物は、その事物が起こる直前における無数の可能性の中から「選択」をした結果であると考えました。そして、その「選択」をするためには、「エネルギー(熱量)」が必要です。ですから、現在の記憶は、それと紐づく事物、さらにはその事物を選択したという事実と、その選択を行う原動力としてのエネルギーがセットになっているのです。そして、その無数の記憶がある個人の中で順序や感覚はともかく、蓄積されているのです。それがその個人であり、現在その個人が特定のスキルで社会に対して価値を創造する源となっているのです。

そして、現在何が起こっているのか。それは、「選択肢が無数にあり、今この瞬間も指数関数的に増えている」ということです。インターネット技術により情報取得コストは格段に下がりました。部屋から一歩も出ずに世界のありとあらゆる情報に安価にアクセスすることができるようになりました。もっと言えば、アドテクノロジーがそこに加わることによって、情報が向こうから歩いて、いや走ってやってくるようになりました。


昔は違ったはずです。情報を入手して選択肢を広げるよりも前に、いや生まれたその瞬間から「肉屋」という名前が付けられるのですから。肉屋の子供は肉屋であり、そこに選択の自由はありません。こういった状況に置かれた昔の人にとって、時間はあまり流れていなかったはずです。なぜなら、あるエネルギーで選択をした結果が記憶となり、その一連が時間であるとするならば、淡々と肉をさばいて売っていた肉屋には時間の流れというものがあまり意識されなかったはずです。せいぜい、桜が散るのを見て春を知るのです。散っていく花びらだったのです。

翻って現代人は情報の海に放り込まれており、淡々と成すべきことをする(事物化)というところまで行くまでに膨大なエネルギーが必要となります。「君は一体何がやりたいの?」と聞かれても答えられないのは、実際には「腹いっぱい食べて力の出る状態(何かを選択=意思決定できる状態)にするのが先だろ…」というところが根っこにあるはずです。

エネルギーがあるから選択できるのです。無秩序な状態を秩序化するためには熱量が必要である、という万物の法則です。逆の見方をすれば、選択した人にはエネルギーがあるのです。エネルギー値が非常に高いのです。

自ら意思決定をしてきた人たちはその場の温度を上げます。実際、そういった人と接すると接している側はエネルギーをもらったような感覚を受けます。これも実感値に近いのではないでしょうか。

エネルギーは温度の高いところから低いところに流れます。僕は意図せず、いや意図していたのかもしれないけれど、自分が溶け出した3つの場面で吸収し、その後の選択に繋げることができたという訳です。

いや、やはり意図はあったはずです。その意図の背景にあるのは、音楽に興味を持つきっかけとなった漫画であり、家にあった音響機器であり、親が買ったオフコースのレコードなのかもしれません。オフコースのレコードを買うという行為、すなわち選択は親が行ったものであり、その選択の背景には何らかの熱量が存在していたはずです。そして、熱量は無から生じない以上、どこかから流れ込んできたのです。そうやって、この地球、いや宇宙の中で延々とエネルギーの伝達に伴う選択を繰り返し、事物が発生し、それが個の中で記憶なることにより、それぞれの時間が流れるのです。

尊いことだと思いませんか?
一方で、儚いことでもあるなとも。


その日、僕は日比谷ミッドタウンで哲学の本を買い自然科学との関係性についての気づきをもらい、一方で現代物理学についての学びの延長としての興味から、自分が知っているエヴァンゲリオンが「旧」であり、そのこと自体を知らなかったということを驚きとともに知り、さらにそれを調べていたところで岡田斗司夫さんの動画講座に行き当たり、彼が紐解く「千と千尋の神隠し」における宮崎駿の知識とエゴについて知る。その知識の中には柳田国男由来の民俗学だったり、宮沢賢治を含めた遠野的世界観があり、そして千尋が運ぶ石炭の重さが量子力学的効果により時間の概念を歪ませる、というギミックであることを知る。

カオスの中でのつながりから価値を生み出す。
エゴがリビドーであり、無関心がLCLの海をつくる。
不可逆な世界の中で部分的に可逆のワルツを踊るのが人間。
だからこそ、儚くも尊い。

これ以上、快楽的なことが世の中にあるとは思えない。
(表題に戻る)

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