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ニューノーマルという言葉の使い方について、欧米、中国、日本人での違い

今日の午前中はお坊さんとお坊さんのような人と仕事の打ち合わせをして、その後ランチを共にしたのだが、その際に、「ニューノーマル」という言葉が中国を起源としているということを前提に僕の仮説を話したんだけど、それは違っていた。
この言葉は2008年のリーマンブラザーズの破綻をきっかけとする金融危機について、その前後での前提が完全に切り替わるということで作られた言葉のようだ。失礼しました。
しかし、自分が話した仮説については抽象的な立場で考えるとあまり変わりがない。僕が話をしたのは、中国のニューノーマルというのは、世界の工場であった中国の輸出競争力が落ち始め成長率が鈍化し、国内の幹線道路や主要交通機関への投資に基づく土地資本主義の限界において、BATXを中心とした新世代IoTプラットフォーマーによる新しいまちづくり自体を、他の途上国に対して仕組み・システムとして展開していくことの一つの言い方で、一帯一路と対をなすものであると考えている。コロナの騒ぎでこの動きが加速することは間違いないし、今回、欧米各国も含めて、どの国のどの産業が最も得をしたのかを冷静に考えて見ると良い。
それにしても、アメリカが経済の土台を成していた金融システムの崩壊を、中国も同様に経済戦略の大転換を契機にしてニューノーマルという言葉を掲げたのに対して、日本でニューノーマルを雄弁に語る人の、その具体的な前後における転換の内容が語られているのを見たこと、聞いたことがない。
家で仕事する=ニューノーマル
みたいなのが日本なんですかね。
大きな物語を目の当たりにして人は抽象的な思考を巡らせて、物語の全容に少しでも近づいて、それを変えることは難しくても、ある程度適応しようとしたり、場合によっては覚悟を決めることになる。かつての人々はそうやって数式を、歌を紡いできたのではないだろうか。
抽象的な空間にいるかつての人々は、その分身であるぼくたちを見てどう思っているのだろうか。

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