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妄想力を失くしてしまった賢いみなさんへ

昔から自分が他者と違っているということに対して非常に敏感だった。それは独りっ子だったことや、父親の仕事柄転勤が多かったからかもしれない。自分と同世代の子どもたちが常に周囲にいなかったことから、子どもであるにもかかわらず、自分という存在の意味について考えていたのかもしれない。だから、小さな頃からずっとこう思っていた。

今でもその頃の肌感覚を覚えているが、当時、学校での活動や、学校外での活動について非常に冷めた目で見ていたことを覚えている。それは特に全体イベント的なものに対して向けられ、運動会やマラソン大会、部活やボーイスカウト、さらには生徒会や学級会、朝礼に至るまで、集団で何か決められたことをすることに対して、意味や楽しみを感じることはなく、極めて儀礼的に行っていた。

極め付けは授業。その時間に行われるはずの授業内容は授業開始後5分くらいで先読みしてだいたい理解した上で、その後は教科書やテストの空間に絵を描いて過ごしていた。一方で、片耳、片目で授業の進捗は追っていたので、先生に指された時は、元気に明瞭に答えることができた。

そうすることで大人が喜ぶと知っていたからだ。

独りっ子である自分にとって、世の中で行われることの大半が学校と家庭であった。一方で同年代の子どもたちがする遊びは自分にとっては子どもっぽく感じてのめり込めず、家庭では兄弟もいない。結果、自分は空想の世界に閉じこもることになる。

空想の世界は凄まじいものだった。

自分の思うがままに、そして思いを飛び越えて、世界はダイナミックに予想外の方向に広がっていった。自分が小さい頃に描いていたドラえもんの漫画は友愛とはかけ離れた宇宙大戦ものであったし、金属製のロボットの玩具は、戦艦のプラモデルと空気銃とセットで、メキシコやコロンビアの麻薬カルテルも真っ青なドラマを展開していた。その空想はエログロ系に引き継がれていくのだが、ここで皆様にお見せできるような内容ではないので割愛する。

定番の空想というものがあった。

だいたい誰かが死んだり、敵対したり、などの離別をベースにしていたと思う。物凄いカタルシスを伴うもので、クライマックスでは強烈な絶頂感や絶望感があり、同じ空想をしても同じところで泣いていた。大粒の涙を流して、そしてそれはいつも布団の中だった。

テレビが漫画はそれ自体で面白い。そして、その後はもっと面白い。それらを自分なりに解釈して自分のドラマとして好き勝手に遊んで良いんだから。Youtubeはすごい。Netflixも良いだろう。でも、その後、どれだけその内容を自分の物語に昇華できるか、なんじゃないかな。そういう能力持った人どれくらいいるんだろう。

料理の話、日本酒の話、美味しい店がどこだそこだとか、それはそれで良いよ。でも、知識だったら本で十分。料理と自分、日本酒とあなた、その物語が聞きたい。その物語の中で君がどういう風に過ごしているのかに興味があるんだよ。

君の妄想が聞きたいんだよ。

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