長沙

平和を愛する者、差別を否定する者が無意識に差別主義者に陥る必然的矛盾について

香港で起こっていることについて、Facebook上で動画や画像、記事などを引用しながら、香港政府、場合によっては中国政府を避難している、香港・中国関係者ではない人間を見ると閉口する。


僕は香港人にも大陸人にも友達もビジネスパートナーもいるし、実際にそのどちらのエンティティとも、場合によってはその両方を絡める形でビジネスをしていたりする。

僕にはその双方の声が入ってくる。

彼、彼女たち、特にほとんど聞こえてくることのない大陸の人々の声に耳を方向け、心の声を聞き、その置かれた環境と今回の事象を起こしている構造について整理・統合、分析をした上で、複数の可能性の中から妥協案としての意見を導き出している人がどれくらいいるのだろうか。


人間が動物と異なるのは、この理性による批評という部分にほかならない。それを抜きにして一方的な感情のみで、断片的な写真や動画、記事を、衝動的にシェアしていく行為こそが、彼・彼女たちが主張するところの”表現や行動の自由”についての”権利と責任”を冒涜している、ある意味、香港で起こっていること以上に酷いレベルでの社会・文化に対する破壊行為であると思う。


平和主義者や差別を否定するもの、正義を主張するものが先鋭化していった結果として、暴力主義になり差別、いやまあ言い方を少しマイルドにして区別主義者に陥るという矛盾がある。

平和主義者が口にするのは、「皆が幸せに生きる権利がある」という言葉、これは正しい。しかし、一方で「幸せ」についての定義は人によって異なる。ある人にとっての幸せが、他の人にとっての不幸に繋がることは、時間や資源が有効な物理的枠組みの中では避けることはできない。

だからこそ、大事なのは事実認識とその因果についての構造化、更には構造化された課題についての解決可能性についての複数の選択肢を常に持っておくこと、その可能性について相手と対話をし、譲歩を引き出しつつ、こちらでも妥協することだ。


「平和が一番」

誰でも言える。
一方で何も言っていない。
甘えと思考停止、そのものじゃないか。


香港で若者たちが憤っている理由について構造的に分析したことはあるのか?その裏側で大陸の人々が何を思っているのか?”表現や行動についての自由”、更にはそれにまつわる”権限と責任”についてはアメリカ型の思想だけが地球上に存在するのか?

血を流した事象について衝動的にメディアをシェアすればエントロピーは増大し、物事は物理的法則に従って崩壊の道をたどる。祈って何かが解決するのか?祈りの後に深い思考と行動が伴わなければ何も変わらない。

日本人は思考しなくてよかった。それは四方を海に護られ、厳しくも豊かな自然に身を任せていれば良かったからだ。だから日本に住む人々は全てを感情で処理する。それで良かった。

しかし、インターネットを通して世界とつながった今だからこそ、その態度が問われている。グローバルで物事を捉えて生きるのであれば、考えろ。それができないなら、態度的に鎖国して半径5km程度の範囲で生きれば良い。

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