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ソーシャルネットワークが我々から物語を奪い、歴史と伝統、文化はこの国から消えていく

先日、インターネットテクノロジーとコンピューティングパワーをベースとしたディープラーニングとレコメンデーションによって人が人足り得なくなる話をした。

実はそれだけではない。近い将来、歴史や伝統、文化と言った、人が人足りえた自体に資産として残されていたものもいずれは失われていく。特に日本において。

ディープラーニングとレコメンデーションの軸足となっているのは広告だ。プラットフォームは広告でマネタイズする。広告の出稿者はその広告を出した結果として、財を交換可能な価値にすることを狙いとしている。そう、全ては資本主義のルールの下で設計されている。

財を提供できる可能性のある潜在的なセグメントに対して広告は配信される。買ってくれそうな層に向けてコミュニケーションするのは当たり前だからだ。プラットフォームはどのようなターゲットセグメントが設定されても良いように、生活者を細かなセグメントに分解する。分解能はインターネット利用者が増え、コンピューティングパワーが増大するに従って指数関数的に詳細化されていく。

これが、レコメンデーションのハードチューニングを起こすメカニズムだ。結果として、生活者は近い属性のセグメントに細分化されていく。そして、属性の近さは周りの環境に影響を大きな影響を受けるため、職業や所得、家族構成、年齢、生まれ年などが近いセグメントがまとめられることになる。

生活者側から見れば、情報が非常に偏ってくることになることは以前の記事で書いた通り。そして、"情報"にはそれを媒介するメディアとしての"人"も含まれる。交友関係の選択肢は前述した非常に狭い範囲に限定される。生まれ年、年齢、職業、収入、家族構成等が似通ったセグメントという名の巣箱に押し込められる。

結果として、歴史の断絶が生じる。

年齢の離れた人と付き合うことが無くなる。いや、付き合わなくなること以上に、距離が離れていく力が生まれる。何を意味しているか分かるだろうか。

世代間が断絶するということは、歴史や伝統、文化がそこで途絶えるということになる。歴史や伝統、文化は資本主義社会の中では単なる償却済み資産であり、そのままではお金にならない。資産に意味を見出し、価値をつけた上で、交換可能な状態にしなければならない。それができなければ、忘れ去られ、二束三文で取引されるか、廃れていくことになる。

周りですでに起こっていることではないだろうか。

資産に対する意味づけは世代間で伝承されていく。バランスシートがある瞬間に整理、総括され、再び意味を定義されて、未来に受け継がれて運用されていくように。しかし、歴史や伝統、文化というものについての整理・総括はもうこれ以上できない。それ自体がその瞬間にお金にならない上に、世代間でその価値を定義するための意味づけが受け渡されていかないからだ。

ソーシャルネットワークが時間の分断を生み出す。

極めて皮肉なことだが、今目の前で起こっているのはまさにこういうことだ。村上春樹が「物語の欠乏とその必要性」をしきりに訴えかけ、彼自身が物語を書き続けているのは、まさにそういうことだ。

ここまで深く考えない一般の生活者は刹那的な要望を実現するために目の前の利便を手にすることから逃れられない。彼・彼女たちは「広告の奴隷」であり、もはや「人ではない」のだから。

歴史・伝統そして文化は一握りのエリートの手にかかっている。欧米はまだマシだろう。なぜなら、宗教の中に歴史・伝統、文化が分かち難いものとして強固な仕組みの中で伝承されているからだ。しかし、日本ではそうならない。なぜなら、八百万の概念であり、宗教の解釈は個の相対的なものに委ねられているからだ。歴史を貫く軸などそこにはなく、あるのは刹那的で快楽的な瞬間が雑多にあるのみだ。

その手に物語を取り戻せ。
人であるという自覚が少しでもあるのなら。

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