巷

まちづくりなんて誰も望んでいない - 絶望の淵でそれでも考える人と話がしたい -

とある投資案件について買収対象企業の創業者でありオーナーであり、代表取締役社長でもある方とトップ面談をするために日帰りで大阪に出張した。

60歳を間近にした彼から、僕らは一緒に仕事をしていく”人”としては最も気に入ってもらえたようだが、買収価格について僕らよりも有利な金額を提示した他のPEファンドに軍配が上がった。翌日のことだった。

提案内容に差は無かったようだ…と言い切れないのは、買収価格で高値を指せるだけの事業計画上での差別化要素があったということでもあるからで、単なる負け惜しみに過ぎない。

もちろん勝つこともあるし、負けることもある。

ただ今回に関しては、いくら”人”として評価してもらったとしても仕事にならなかったので僕らから”価値”もしくは”価値を生み出す可能性”を生じさせることはできなかった。一点、新幹線で大阪まで移動するためにJR東海に支払った乗車券と特急券、更には車内でミーティングをするためのグリーン券の料金を除いては。

何が言いたいかというと、僕らは資本主義社会という社会・経済システムのルール、プロトコルの中で生きている訳で、それが”市場の中で【現在価値】を交換する”というルールでできている以上、そのルールに基づいて交換に基づいた対価を得なければ生きていくことはできないし、それが嫌ならば新しいルールを創り上げ、それをある一定規模まで広げることで”社会”を創造するしかない、ということだ。


買収コンペの翌日に、知人が主催、参加するイベントに顔を出した。

イベントの開始直後、話を聞いていて「綺麗事ばかりでつまらねえなあ」と思って聞いていた。

ゲストスピーカーである2人は実際に、まちに根を張って事業を行っている訳だが、事業を行うということは資本主義社会のルールに基づいて「現在価値の交換を市場で行っている」当事者そのものであり、そこで目にしたり体験したりする内容は、それをまちづくりと呼ぶかどうかの枠を超えて、現代社会において普遍的な課題に直面し、戸惑い、憤り、もがいているはずだ。そして、突き詰めて考えると絶望に近いものに触れているはずだ。


僕は基本的に、「日本人、いや日本という土地に住まう人々というのは、基本的に日和見主義で、超短期思考で、極めて利己的である」と言う考え方を持っている。

四方を海に護られたこの国では、諸外国からの侵略を心配する必要がなく、”村”という狭い範囲で稲作と狩猟、漁によって自給自足することができた。毎日の天気に一喜一憂し、一日あたりの収穫を基本とし、狭い範囲での生産活動に集中すれば良かったからだ。

世界が多数の”村”で構成されていた江戸時代まではそれで良かったが、明治維新以降、産業革命の考え方が持ち込まれ、資本による労働・設備生産性の向上、更にはレバレッジ(有利子負債)を活用した資本生産性の向上という概念が持ち込まれた結果、”村”は巨大資本の中に取り込まれ、”平等”というラベルがつけられた”社会”に人々は放り出されることになった。

日本人は社会を語ることが得意ではない。平等や、自由と権利、責任についてもまともに語れる人は少ない。公益=国がやること=ボランティア、のような無理筋の誤解が当たり前のように語られるのも無理はない。”村人たちがいきなり自由主義の平等空間の中に放り出されてしまった”からだ。


イベントの途中で、ゲストスピーカーの一人で僕の友人がしびれを切らしたようにこう言った。

まちづくりなんてだれも望んでないんですよ。

素晴らしいと思った。絶望的な言葉だ。だからこそ希望に満ち溢れてる。望んでいないことにお金なんてつかない。僕もそう思う。

日和見主義で超短期思考で利己的な村人たちの大半はまちづくりなんて望んでおらず、70歳以上になっても自家用車を運転し、イオン系列のショッピングモールに行き、化学成分をたっぷり含んだ生産性の高い商品を購入し、大量の米とともに費用対カロリーの高いやり方で消費し、功利的に生きることを選ぶ。


コミュニティが大切。繋がりが大事。場が必要。

それはそう。誰でも分かる。誰でも言える。一方で、それを資本主義社会のルールの中でどう仕組み化、システム化するのかが問われている。

西欧社会がなぜそれを可能とするのか?そこにはブレーキ機能としての宗教と哲学がある。常に個と個がぶつかり合う世界の中、自己批判と社会、資本と利殖という概念を発明した彼・彼女たちは、議論を重ね続け、個と社会の間で資本と利殖の暴走を食い止める仕組みを持つ。しかし、それでも極めて合理的な必然として奴隷労働や大量殺戮を現実化させてしまう。


我々村人にはそれすら無い。

メルカリが鹿島アントラーズを買収して何をしようとしているのか。楽天が仙台で何をしようとしているのか。鈍足のYahoo!がLINEを統合して何をしようとしているのか。Youtube上でYoutuberたちが何をしようとしているのか。なぜ、彼らがメインプレーヤー足り得るのか。今回は深堀りしないが、これらの動きについて、いわゆるまちづくりのオルタナティブとして共通する示唆について考え及ぶ人がどれくらいいるだろうか。


まちづくり、コミュニティ、つながり、場、こういう言葉で結論づける論壇を僕は敵視する。もっと考えなければ、もっと絶望の淵に立たなければ、その先は見えてこない。もっと考えて、もっともっと深いところまで堕ちていく。そうすればきっと純粋なものが見つかる。

そういう人や態度が求められている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?