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西日暮里に恥ずかしげもなくさらけ出されていたそれぞれのプライベート

先日、打ち合わせの場所として、西日暮里駅前にある”西日暮里スクランブル”という場所で集合した。

流行りのコミュニティスペースという感じで、軽飲食、バー、物販、イベントなどが組み合わされている。その一角、1F入ってすぐのところに”西日暮里BOOK APARTMENT”というショップが入っていた。

大抵の事物と同様に、名前とコンセプトは後から知ることになる。ボックス型の本棚が壁面に沿って設置されており、その中には様々な本が、時にはおもちゃのようなものまで入っている。見た感じから、このコミュニティスペースに即した本を展示しつつ、売っているものと理解した。

その本棚に並んでいる本たちをザッと見ていると、あることが気になった。

自然科学に関する本、古典に類する本がほとんど無い…

デザインやライフスタイル、旅行、ノウハウ系の書籍が目立つ。

そこで、一角に座っている店主?にそのまま聞いてみたところ、このショップ自体のコンセプトを教えていただけた。すなわち、ここは本屋のように見えるが本屋ではない。本を販売していることは事実だが、本を売っているのはショップ側ではなく、別の個人や法人であるとのこと。ショップはモール、もしくは店名に沿って解釈すればそれは宿舎のオーナーであり、部屋を貸している訳だ。その部屋には個人や法人が間借りして本を置くということだ。

その話を聞いて、先ほどの質問は自分の中で先送りされた。素晴らしいコンセプトだなと。

それぞれのボックスはその人(個人・法人)の顔そのものであり、場合によっては人々が自分のことを語るよりも雄弁にその人自身を表していることになる。

そして人の顔としてのボックスは不特定多数の来店者とこのAPARTMENTで顔を合わせることになる。そして、来店者は一つのボックス、顔を見た上で、さらにその視線を縦横に展開することにより、ボックス同士の関係性が生まれる。そして、さらに面白いのは、本というのはそれ自体が作者と、その作者の思想が重層的に織り込まれている訳で、先ほどの関係性は歴史をさかのぼり、その作者やさらにはその作者の引用先にまで繋がっていく。

この構造にワクワクしない人はいないのではないだろうか。


さて、西日暮里BOOK APARTMENTを後にして数日後、別のミーティングの帰りに日比谷ミッドタウンにある有隣堂を覗いた。すると、そこにも人の顔と紐付いた本棚が設置されていた。こちらは、本棚一本全体がある個人と結びついていて、その本棚が複数設置されていた。個人的には有隣堂の副社長のセレクトは非常に興味深かった。

セレクトショップと言ってしまえばそれまでだが、セレクトショップのセレクト主体はショップであるのが普通であるところ、上記のコンセプトは不特定多数の個人や法人が主体になっているところが面白い。

本棚というのは秘密めいた自己満足の象徴的存在で、一般的に自分の本棚が不特定多数の目に晒されるということはない。だからこそ、人の本棚が眼前に出現し、それが重層的にあるという構図は非常に神秘的であり、プライベートを覗き見をしたようなエロティックさすら感じられる。

つながるということで単に不特定多数が同じ場所にいるだけではつまらない。そこにその人の思想があって初めて相互関係が成り立つのが人間だとすれば、その思想の小宇宙としての本棚が露出して顔を合わせるということにはとてもエキサイティングなものがある。


だからこそ、最初の質問に戻るのだが、どうして人は今、自然科学や古典に関心がないのか、ということがひとつ先の懸念として気になってくる。世の中をどう見るか、世の中とどう関係するか、によって自己が存在し、そこに時間が流れる。それが人間的行為であるとするならば、世の中との関係性について歴史の中で、それを解きほぐそうとしてきた人々の知恵に触れることは、これ以上ない体験だと思うのだが。


ということで、今日はここまで。自然科学と古典、そして複眼的・重層的な体験としての読書+αについてはまた別の機会に書き起こすとしよう。

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