1 と ものさし
1というものを考える。数学上ある特定のものを
1と規定することによって、私たちは複雑な認識を科学的に簡便化させる。
一つのリンゴを1とする。一人の人間を1とする。
福岡県を1とする。日本を1とする。何を1にしようが私の自由である。
1というものは、まぼろしのごとくに変幻自在に姿を変えていく。
ここに「1はリンゴであり、日本でもある。」が生まれる。
自由というものを、他からの強制・拘束・支配などを受けず、自らの意思で選択できるものだとするならば1は私の中で自由である。
つまり、私の理性による抽象概念のなかで1は自由でありうる。
ここに、目の前にある物差し見る。1を見つけた。1cm。
この物差しの1はリンゴになりえるだろうか。
この1は、せいぜい国際単位系で定められた1mの100分の1の値である。
これ以上でも以下でもない。私はこの物差しの1をリンゴと置き換えることはできない
ここに、物差しは私の抽象概念から離れている。
私は、物差しを物の長さを測る道具として経験を通して心得ている。
当然、物差しはリンゴではないだろう。
人を1と考える。人はAさんのようにもなれるしBさんのようにもなりうる。
つまり、人は誰にでもなりえる。明石家さんまにもなれるしシェイクスピアにもなれる。
人は人という、認識の中で自由に誰にでもなりうる。
1の魔術に煽られて変幻自在に自分をデザインする。
しかし、私はシェイクスピアでないことを知っている。
どうやら、人には他の人に”なる”という自由はない。
1という魔術を鏡に自分を見ることは易いが 実際に自身に触れることは難しい。
物差しは、自身が物差しであることを知っている。 リンゴでもあると知れば窮屈だ。
なるほど、物差しは何かを計るという使命を了解し そのなかで一隅を照らしている。
至るに私は、物差しに異様な憧れを抱く。故に、私は私に差し迫る。
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