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私が大学教員になった理由

2020年。40歳の私は、産業技術総合研究所の主任研究員だった。40歳は人生の岐路である。その頃の私は、暗い闇の中をさまよっていた。いわゆる、ミッドライフ・クライシスである。

私はこれまで研究者として、早稲田大学・ポスドク、東京大学・ポスドク、産業技術総合研究所・研究員→主任研究員と、数々の研究室を渡り歩いてきた。しかし、40歳の私は、漠然と物足りないものを感じていた。

プレイヤーとして活躍することを目標としていた自分であったが、2016年に自分の考えを大きく覆す学生に出会った。それは、簡潔に述べれば、「プレイヤー志向」から、「マネージャー志向」へと目を向ける大きな出来事だった。つまり、漠然とした物足りないものとは「学生への教育」であったのだ。

その後、2018年〜2019年の1年間の事務職への出向を経て、研究現場に戻ってきたとき、世界中で新型コロナが蔓延し、これまでの日常ががらっと変わってしまった。

研究室にも実験室にも行けず、これまで通りの手を動かす「Wetな実験」がまったく出来ない。

そこで、私はこれまで避けていた「Dryな研究」、すなわち、コンピュータ解析に目を向けた。統計の基礎から、R、Python、機械学習、ディープラーニング、バイオDXと、少しずつ触手を伸ばしていった。

そして時が経ち、少しずつコロナ騒動が収まってきた。私は実験室に向かい、いざ実験しようとするのだが、まったく頭が実験モードに切り替わってくれない。そのため、雇用していたテクニカルスタッフの方々にお願いして、自分のイメージする実験を進めてもらうことにした。

このとき、私が20代の時に飲み会で聞いた大先輩(花田さん)の言葉が、私の頭の中で響いていた。

「40歳になると、自分で手を動かせなくなるんだよ。これが不思議と40歳なんだ」

花田さんの話は本当だった。40歳になったころから、自分では直接実験せず、テクニカルスタッフの方々の行った実験結果をみて、次の方向性を指示することが多くなっていた。自分は、論文を読んだり、書いたり、雑務をこなすだけで手一杯になってしまい、実際に手が動かせなくなっていたのだ。

このままでいいのだろうか・・・。そこで立ち返って考えたのが、「学生への教育がしたい」という願望だった。自分がこれまで経験してきたノウハウを学生達に伝えていきたい。少しでも、日本の未来に役に立ちたい。そう、強く思うようになった。

そこで、信頼している数名の先生方に連絡して、自分の考え、すなわち、「大学に移りたい」という意向を伝えた。そこで「分子生物学(Wet)」に加えて、コロナ禍で勉強していた「コンピュータ解析(Dry)」の両方をやれるというのが自分の強みになり、なんとか滑り込んで、大学・薬学部・准教授のポジションにつくことが出来た。

薬学部に所属するということもあり、理工学部出身の私には、これからいろいろなことが待ち受けているであろう。しかし、学生達に優しく語りかけながら、これからの人生を歩んでいきたいと思う。

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