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詩というもの

最近ちょくちょく鳥獣人間舎の文芸活動に参加を希望する人から連絡が来るようなりました。その中には、自作の詩を評価して欲しいといったような動機の人がけっこういます。

ただ、この詩の講評というのがけっこう難しくて、たぶん何でもそうだと思うのですが、物の見方によって評価の基準も変わってくると思うんです。例えば、イイネがたくさん得られれば良しとする立場もあれば、人から見向きもされないような苔にまみれたお地蔵さんを良しとする立場もあると思います。たぶん、世の風潮としては前者の方が圧倒的に多いと思うのですが、そうなると前者の評価が+10で、後者の評価が-10になってしまう(評価とか数値化とかあまり好きではないのですが、便宜上すみません)。ですが、僕はわりと後者のように人知れず佇んでいたりするものが好きでして、そうなると前者の評価が-10になってしまこともあるんです。すると、「この詩はイイネが1万件もあるのに、あなたの目はおかしい!」と怒り出す人もいるんですね(本当に)

これは個人的な意見かもしれないんですけど、そもそも詩が書ける人って(分かる人も含めて)そんなにたくさんいないと思うんですよね。

詩というのはひとつの視野だと思ってまして、それを具現化する人(詩人)はだたの媒体であるべきだと思うんです。我が消え去ったときにふとひらめきが降ってきたりすると思うのですが、詩人がやるべきことはそれをただ人間が分かり得る(または直感し得る)言語に翻訳することではないのかなと。と言っても、それは簡単なことではなくて、演劇の形をとる場合もあるでしょうし、無言という形をとる場合もあると思いますし、もちろん小説の形をとることもあると思うのですが、どうも世の中で受け受け容れられている「詩」というのは、履歴書の形式に収められたものを人間と呼ぶのに似ているような気がします。

個人的には、万葉集に収められた和歌も詩だと思いますし、枕草子という日記なんかも詩だと思いますし、ゴダールの映画も、寺山修司の戯曲も、村上春樹の小説だって詩だと思います(上げればキリがないのでこの辺にしときますが)。そもそも詩の視野って、人間という取るに足らない存在のずっと外側にあるもので、それはきっと風の声だったり、太古の記憶だったりもすると思うのですが、それを動物的感覚によって感じ取ったときに、人間でも理解できそうな形であらわそうとする無謀な試みによって初めて詩が具現化されるのだと思います。

ところが、今の世では、「我(自分だけ)」の中に閉じられたものまでが詩と呼ばれてしまってる気がします。詩でないものが詩として氾濫していて、これが共感され(共鳴でなく)イイネされたりして広まっていくと思うのですけど、それは本来あるべき詩の姿ではないと思うんです。それは、「ブログ」とか「つぶやき」とかそういう呼び名をつけて欲しいなと常々思ってます。

特に日本には私小説とか純文学とかいう独特の領域がある訳なんですけど、自分の視野で語るものを良しとし、客観的な視野で語られたものはあまり歓迎されない風潮があるように思います。例えば、スポーツニュースなんかでもパフォーマンスがどうだったかという客観的でドライな事実よりも、一生懸命頑張った!感動をありがとう!といったような「感情による快」を与えるものに重きが置かれる気がします。そうした排他性は、しばしば日本の文学賞なんかでもよくみられる傾向だと思うんです(根深いところには「見て欲しい」「見てあげたい」という依存関係があるように思います)

もう一つ例を上げれば、野球なんかで長嶋茂雄は大衆受けが良かったですが、落合博満はそこまで人気がありませんでした。あと、源義経はいつの時代も浄瑠璃や歌舞伎で取り上げられるほどの人気振りですが、源頼朝は不人気です。どうも日本人は泥だらけになったり、涙を流したり、感情をあらわにしたりするものを好む傾向があると思うのですけど、一見冷徹に見えても本当は後者の方が心が優しかったり、人の見ていないところで歯を食いしばっていたりすると思うんですよね。

おそらく、日本人には貴族たちが袖を濡らして和歌を詠んでいた時代から母性をくすぐるような感情主体のたおやめ文化のDNAが脈々と流れていて、なかなか詩の視野というのは浸透しにくいのかなと思ったりします。涙や感情というのも普遍的な視野で捉えられれば、それは詩になる気がしますが、たいていは「自分」の中で閉じられてしまっている気がします。もちろん、中にはぐっとくるのもあったりして、イイネを十回くらい押したいと思ったりすることもあります。でもそれってやはり共鳴ではなく、共感なんですよね。それはそれで否定するつもりはないのですが、詩という視野で捉えられたものかどうかといった時に、やっぱり違うなというものがけっこうある気がします。

何度か詩の雑誌を買って読んだことがあるのですけど、どれも似たり寄ったりでどうも僕にはしっくりきませんでした。たぶん、相性もあると思うのですけど、どことなく自由ではなく、足かせを掛けられているなという印象を受けました。例えばこれは想像なんですけど、業界のルールとか、大御所の好みとか、過去の作風とか、そうした目には見えない常識を敏感に感じ取って、書き手も編集者も知らず知らず「詩」という形式に収めようとすることで、詩が詩じゃなくなってしまうこともあると思うんです(どうも日本人は強迫観念が強いせいか「こうでなければならない」「みんなと一緒じゃないと嫌われてしまう」という意識が働く傾向がある気がします)。そもそも人の手を介せば介すほど、詩の純度は下がってしまうと思うので(「風の声」が「扇風機の音」になったりするように)、市場の動向に委ねることで、何かが失われていくものなのかなと思ったりもします。

あと、レンタルDVDの店なんかに行くと、ジャンル分けされた棚に作品が陳列されていることにもすごく違和感を感じます。そもそも、作品というのはその作者が生み出した唯一のジャンルであるべきだと思うので、あいうえお順で並べるべきだと思うんです。これも、詩の世界から遠く離れた「お客様」というものに重きが置かれてしまっているからなのかなと思います。

ちょっと話が脱線しましたが、我(自分)とか、形式とか、利害とかのずっとずっと外側にある普遍性を帯びたものが詩と呼ばれるべきではないかと思ってます。

萩原朔太郎は「郷愁の詩人 与謝蕪村」というエッセイでこう言ってます。

 - 純粋の詩人だけは、その天才に正比例して、常に必ず不遇である。

つまり、詩が不純であるほど、俗世の大衆に受けやすいといった皮肉だと思います。でもそうなると純粋に詩を追い求めるほどたくさんの人には届かないものになってしまうので、それはそれで寂しい気もしますね(さびれたお地蔵さんのように永く生き続けるとは思うのですけど・・)。ともあれ、詩はもっと自由であって欲しいなと思います。