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わがままな意識さん

意識とは面倒なものだ。私は自分の意識というものがあまり好きではないらしい。わがままだからだ。自分が意識をコントロールしているようで、実は意識に支配されている気がしてならい。寝たいのに、意識がそれを許さない。

でも、寝ている時以外はほとんど意識とともに生きている。だから意識をコントロールしたいとも思う。

意識さん、あなたは何でも知りたいんだよね。例えば?

「大谷翔平選手は今日もホームラン打ったか?」
「人工知能は意識を持つか?」
「地球沸騰化は本質的にはエントロピー増大で抗えないのか?」

色んなことに興味があるんだね。でも、興味のないことはどうしてるの?

「無視する。そもそも興味のないことは見えないことになってる。」

ほお、じゃ、興味があるけど、わからないことだったら?

「俄然調べる。」

それでもわからなかったらどうするの?

「調子よければ最後まで調べる。でも諦めちゃう方が多い。」

じゃあ、質問を変えるよ。世界がわからないことしかなかったら?

「あり得ない話だが、発狂するか全面休業。」

わかりたい知的好奇心はあるのに、わからないことが多いとオーバーフローということかな・・・それじゃ、知ってはいるけど理解できないことはどうしてるの?

「理解しようとする。」

それは立派だね。その理解が間違っていたら?

「ちゃんと理解したんだから間違えるわけない。」

なるほど、では、理解しようと頑張ったのに、それでも理解できなかったら?

「なかったことにするか永久追放。」

✨✨✨

意識は、意外とわがままで厄介。どうして厄介なのかは、意識は自分のわがままぶりを自分で意識しないからだ。

意識は自分でコントロールできるというご意見もあろうが、その考え方には疑問がある。確かに、意識は学習すればするほど賢くなってくれる。しかし自分の意識をうまくコントロールできた経験が私には見当たらない。

興味のないものは、「ないことにする」能力に長けているし、理解不能フラグが立つと潔く考えることをやめてしまう。

それにわからないことを突き付けられると、勝手に知ったかぶり偽装をしたりもする。

理解できたとしても、その理解に間違いがあると指摘されてすぐに、スクラップアンドビルドすることは難しい。意識は柔軟ではない。これを世間的には頭が固いと言っている。

ここに二人の人がいるとしよう。

一方は「努力は気合と根性の問題」だと言い、もう一方は「いや、努力は才能の問題」だと言う。この二項対立に両者の意識はどうやって向き合うのだろうか?柔軟に対応できるのだろうか?

また、ある人が言う。「学校は自由な環境で子どもたちに好きなように学ばせるべきだ」と。それに対して別な人が「いや、学校は管理された環境で、カリキュラム通り子供たちに学ばせるべきだ」と言う。

こういった「べき論」の二項対立は、言い争いや論争になりやすい。

理解できていることに、真っ向から「違う理解」で敵対されると、意識は「素直に」反発しようとする。これまで理解することに「素直で従順だった」意識は、対立する「違う理解」の相手を説得しようと頑なな態度に豹変する。

どうやら意識は一貫性が損なわれることを嫌うらしい。相手の理解を受け入れるよりも、自分の意見を変えずに自分の理解を貫き通そうとする。意識は頑固な側面ももっている。

お互い理解し合うことが大切だと意識は学んでいるはずだが、理屈通りに動いてくれないのも意識。これが言い争いのからくりだと見ることもできる。意識における相互理解は絵に描いた餅なのかもしれない。

👀

言葉とは言い得て妙なところがあり、「心と心の触れあい」「肌と肌の触れあい」という表現はあるが、「意識と意識の触れあい」という言い方はしない。

このことは、異なる意識同士にはそもそも相互作用がないからだと理解することもできるが、昔から人々は、意識はわがままで頑固で、触れあえるほどの柔軟性もないことを「肌でわかっていた」ことを物語っているのかもしれない。

映画やドラマの世界では「魂と魂の触れあい」がたくさん出てくるが、私は「わがままな意識さん」に魂と意識の関係について深く理解してみたらどうかと促してみたが、無視された。


🌹こちらのnoteも少しだけ意識について触れています。


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