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現代人がなくしたもの


古代から現代への旅

古代の地球。時の刻は草木も眠る深い夜。灯りひとつない闇夜。静寂な夜に星が降っている。

やがて闇夜に目が慣れてくると、地平線よりも少し高い山とも丘ともわからないシルエットが浮かんできます。流れ星が目に飛び込んでくる。

古代の星空って星降る空だった?(写真AC・MYZK140さんより拝借)

もしかしたら、満点の星空から星座を探し出すことは大変だったかもしれません。星の数が多くあまりに解像度が高いと、星座を見つけにくいのではないかと思うのです。

さて古代から今にタイムスリップしましょう。冬至を迎える12月の中頃(このnoteを書いた時期)、例えばここは、東京から少し離れた関東の田舎町。

冬の星座オリオン座(こちらも写真AC・しろかねさんより拝借)

ぐっと解像度は低くなりましたが、南の空にオリオン座が見えます。

冬の空は、空気が乾燥していて湿気が少なく星の光が乱反射しにくいので、澄んで見えるようです。夏の空よりも冬の空の方が星を多く見ることができるのは、こんな理由からです。

子どもの頃、私は星を見るのがとても好きで、毎晩のよう星空を眺めていました。でも、最近は夜空を見ることが少なくなりました。星が減ってしまったからです。

それでも天気のいい日は外に出て夜空を眺めます。空が澄んでいれば、東京の冬空でも、オリオン座や北斗七星を見ることができます。星空マップがわかると天体観測も面白いものです。

古代の夜空も現代の夜空も同じ星空です。でも違います。古代の星空はどんなのだったのだろうと思うと、古代の人々と私たちの感覚では違いがあったのだろうと想像を馳せてみました。

神話はなぜ生まれた?

さてさて、オリオンが宙へ行ったのは古代ギリシャ時代。オリオン座の原型ともなっているのはギリシャ時代のオリオン神話です。オリオン神話には諸説ありますが、とりあえずこちらを。

オリオンはとても体が大きく、力持ちで、ギリシャ神話で一番の狩人でした。そんなオリオンは、そのうち力を自慢するようになりました。見かねた女神ヘーラは、オリオンをこらしめるために、彼の足元に大きなサソリを放ちました。さすがのオリオンもサソリの毒には勝てず、命を落としてしまったのです。今でもサソリが苦手なオリオンは、サソリが東から夜空に上がってくると、そそくさと西から沈んでいきます。

ウェザーニューズより( https://weathernews.jp/s/star/orion/myth.html

冬の代表的な星座はオリオン座。夏の代表はさそり座。このふたつは同じ空には姿を現しません。さそり座が西へ姿を消すと、オリオン座が東の空から昇ってきます。このお話はプラネタリウムでも鉄板ネタです。

ちなみに星座になったオリオンはこんなカタチ。

オリオン座( https://weathernews.jp/s/star/orion/myth.html

古代ギリシャ時代では、世界がどうなっているのかを人々が語り合うということが盛んでした。ソクラテス・プラトン・アリストテレスは特に有名ですが、世界はこうなっているのだという自然観が大いに語り合われていました。

人間にとって、わからない理解できないということは、本然的な不安と恐怖につながります。この本然的な不安と恐怖が自然を解明したいという自然哲学を生んだのだと私は思います。

情報化社会のおかげで現代人は色々なことがわかり理解できるようになっているので、得体の知れないものに接することはほとんどなくなりました。それでも現代人だって、見たこともない存在が突然目の前に現れれば、恐怖を感じます。

人間はわからないと不安になるし、理解できないことに直面すると恐怖も感じます。

時代をさかのぼってみると、時代の大きな変化として農業革命・産業革命・情報革命があります。これらの革命を経て現代社会があります。私たちはその過程で多くのものを得ることができました。

しかしながら、この大きな変化のなかで私たちが喪失したものもあるのではないかと思います。この問いに答えるため「古代にはあったけれども今ではなくなってしまったもの」について考えてみたいと思います。

現代人がなくしたもの

自然哲学は古代ギリシャに始まり、現代に至るまで発展してきました。自然哲学以外にも古代から受け継いだものはたくさんありますが、私が考える「古代にはあったけれども今ではなくなってしまったもの」は社会に根付いた神話であり物語です。

社会に根付いた物語では漠然としてわかりにくいかもしれないので、もう少し解像度を上げて考えると、現代人が生命の根源的な不安や恐怖、本然的な渇望から物語を生み出す妄想にも近い想像力や創造力を失ったか、退化あるいは封印させてきたのではないかと思っています。

逆に現代人が物語を創作する場合、本能的あるいは感性ベースではなく、理性的になりがちな傾向があると私は思っています。もちろん感性豊かに物語を紡ぎだすことのできる作家も少なからずいるということを前提にお話ししています。

あくまでも総体的な傾向として、現代人がなくしたのは、根源的に物語を生み出す動機や本能的な創作意欲ではないかというお話です。逆に、理性的傾向が強いという意味合いです。

人類にとっての最大の課題は、飢餓・疫病・戦争であったと言われています。古代ギリシャ時代が比較的平和な時代だったとはいえ、古代人が、飢餓・疫病・戦争による生命の危機や恐怖に常にさらされていたことは想像できます。生命の危機的状態において、人は救いを求めます。そして、想像したのでしょう、人を救ってくれる超人や巨人の物語を。

オリオンは飢餓から救ってくれる狩人で、オリオン神話も救いの物語として創作されたのでしょう。そして、数多く生まれた神話は多くの人が語り継ぎ、その物語に触れることで社会に根付いていきました。そして、古代ギリシャ神話を包摂することで、キリスト教も生まれています。

もちろん現代においても、悲しいことに飢餓・疫病・戦争で生命を亡くす人がたくさんいます。ただ私たち現代人は、飢餓・疫病・戦争がなんなのかの正体を知ることができます。また、すべての命を救うことができるわけではありませんが、飢餓であれば農業技術、そして水路を引くなどの干ばつ対策の技術や食糧支援、疫病であればワクチンや治療技術があります。

現代の今もなお残虐な戦争が続いていて、戦争がなくなることを望みますが、大量殺戮などのジェノサイドは国際的にも禁止されており、人道的な観点から、戦争のあり方も武力戦に加えて、情報戦へとシフトしてきています。

さらに、社会福祉・防災対策・医療技術等のおかげもあり、まだまだすべての命を救うことはできませんが、私たちは生命の危機から命を守り、命を救う術を学ぶことができるようになりました。世界的に見ても、命の危機や恐怖に日常的にさらされる人も減り、世界の人口は過去最高の80億人を超え、これからも増え続けます。

命の危機や恐怖から日常的に「解放」された私たちに、もはや救いとしての神話は必要なくなりました。ましてや近代科学の客観的合理思考と資本主義経済社会の利益追求営為により、古代の人々には身近なものであった神話は非現実的なものとなり、その存在感も失いました。

私の見立てでは、ローマカトリックにより神の物語が台頭することで新たな物語が必要なくなり、最終的には近代の「科学革命」により、機械論的自然観が人々に浸透したことで、神話の創作が行われなくなりました。

近代以降は、科学的かつ合理的であることが重要視されるようになりました。それは社会が理性化してきたことを意味します。また、経済活動においても、理性的であることが重宝されます。

経済社会においては、神話つまり物語は「作品」という経済原理の枠に閉じ込められがちになります。理性をベースにデザインされた経済社会では、新たな物語を創作するような活動はエンタメ業界など限られたビジネス環境においてのみです。

逆に、こういうビジネス中心の環境下で、経済原理に足を引っ張られ、自由な創作ができないことに、ストレスや窮屈さを感じている作家やクリエイターの方々も多いことでしょう。

しかし、そう悲観するものでもないかもしれません。クリエイターエコノミーも生まれてきています。今では創作活動の場は、エンタメ業界がすべてではありません。

理性を捨てて、妄想をベースにした創作活動をしたもん勝ちみたいなところもあります。そういう時代だと思います。妄想たっぷりな創作を待っている人もたくさんいると思います。私もそのなかの一人です。


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