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ムダに教養がつくかも知れない不定期な雑学講座の連載(講義中は寝ないこと)~世界宗教の基礎知識2「仏教」をひもとく  第2講 大乗仏教の成立 その8

  他力本願という考え方

浄土教においては、浄土にいくための修行を必要としない。
というスタンスです。

つまり、「阿弥陀仏の誓願」の力が絶対視されたことで、
修行の必要性が消えてしまったわけです。
基本のスタンスは

「阿弥陀仏の誓願にすがって、極楽浄土に往生する」事にあります。

  すなわち、ただひたすらに極楽浄土に往生することを願って、
「南無阿弥陀仏」と唱えればいいということになります。
「阿弥陀仏の本願におすがりします」とひたすら念ずれば、
誰もが極楽浄土にいけるというわけです。

 このような「自力で浄土に行くのではなく、
阿弥陀仏が浄土に連れて行ってくれる」という
「他力本願」の考えは、他の経典と大きく違うところです。

世情が不安であるほど、また、生活に余裕なく絶望感が多い人々こそ、
この考えに惹かれていったと考えられます。
 どうしても「善行」を積むことのできない身であっても、
あまねく阿弥陀仏にすがれば極楽浄土にいけると説いたわけです。

  ですから、法然は「専修念仏」といって、
ひたすら極楽往生を願って念仏しなさいと説きました。
つまり、阿弥陀仏に届くように念じろというわけですね。

これに対し親鸞は阿弥陀仏の本願は、
すでに自分たちを極楽浄土へ呼び寄せているのだから、
これに対し「感謝の気持ち」で念仏することである。
と説いています。

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「悟る」から「救われる」へ

前にも言いましたが、「極楽浄土」は、
菩薩にとって、もっともブッダになる修行がしやすい「学校」です。
ですから、本来であれば往生と共に修行が始まるわけです。

 しかし、浄土教においては、
だんだん、「ブッダ」になるより「極楽浄土に往生すること」
を最終目的にするようになったわけです。
 似たような現象は、「大学受験」とか、
「就職活動」にも垣間見ることができます。

むろん、法然や親鸞も、極楽往生が最終目的だとは言っていません。
この世の苦しみに耐えかねた信者の増加によって、
現実逃避の手段としての迎合が進んでいったと考えられます。

 ここで言えることは、当初は悟る事が目的ではあったものの、
だんだん目的は「救われること」に変化していきます。

 無量寿経や阿弥陀経には、
「極楽浄土とは、苦しみも悲しみもない世界であり、
すべての人々は宝石に飾られた宮殿に住み、究極の楽園生活を送る」

と言うことが描かれているため、
人々はそこにだけ注目するようになったのです。

 本来ならば学問を追究する大学が
「キャンパスライフを謳歌できる」という目的に
すり替わったと考えるとわかりやすいかも知れません。

 しかも、そのゴールが悟ってブッダになることではなく、
いつまでも極楽で快適な暮らしを永遠に続けられる
というようなことに変わっていきました。
イメージとしてはキリスト教の「天国」に近い感じです。

 しかし思うのは、社会不安の中、
本当に「救われたい」と感じた人々が
この教えにすがらざるを得なかったということが、
浄土教の爆発的な拡大に見て取られるのかも知れません。

浄土教は他の大乗仏教と比べると、
この点でかなり特異であると言えますが、
明日が見えなく、本当につらい状況にある人々にとっては、
大きな救いになる教えでした。

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