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ひとりの夜
ふと、ショパンの旋律が頭をよぎった。

 「これ、ノクターンの第2番 変ホ長調インEフラットっていうのよ。 」

中空から「彼女の声」が聞こえたような気がした。
老いのせいか、近頃しばしば「幻聴」がする。

 これも、そろそろ呼ばれてるのかもしれないな。

そんな仕方のないことを考える事もある。

 遙か前に、自分の心が戻る瞬間でもある。
まぁ、それは記憶というデータが、脳のどこかのデバイスにアクセスしただけの事だ。

  人の肉体も、なにがしかの「機械」であるから、こういった故障トラブルはつきものだ。
 問題はその劣化を意識が、己が認めるか否かだろう。
 
確かに記憶メモリーとは不思議なものだ。ふとした拍子に鮮やかによみがえる。それは、私のどのデバイスから語りかけているのか、知るよしもない。

とりあえず、私は耳から入ることにした。彼女は、時々ピアノを奏でていた。曲はいつもショパンの練習曲だった。
ソファに腰掛け、デッキに向けてリモコンを押す。

  なぜか今夜はショパンが聴きたいのだ。

  彼女は,ストリートピアノが置いてある所で待ち合わせるのが好きだ。
で、いつも待ち合わせより早く着いてピアノを弾いているのだ。
今日も待ち合わせの場所に行くと、案の定彼女はピアノの前に座っていた。奏でている曲は、何かしら誰かを思うような、そして、小さな幸せをかみしめてるような曲。
私が近づいて聴き入っていると、彼女は気づいたのか、一小節を終えて椅子から離れて私のかたわらに寄り添った。

 「これってね、寝る前にいつも練習してる曲なんだ。」
「なんか、音楽の時間に聴いたような・・・。」
「うん、ショパンの夜想曲ノクターン第2番変ホ長調インEフラットだよ。弾いてみると結構難しいな。」
 「どんな意味合いの曲なのかな?」
「寝る前に何かを想うかって事かななぁ・・、でも弾いてると心が温かくなる。」

 彼女は少しうつむいて、手をもじもじさせていた。そんな彼女を心からいとおしいと想ったのだ。

 私の「耳」というデバイスから入ってくる音の調べは、私自身の記憶メモリーを引き出してゆくのだ。

11月に入ったある日のこと。
彼女はとうとう覚悟を決めたかのように、緩和病棟に向かった。
 そこは、異空間だった。しかし、不思議な安らぎにあふれていた。
広いホールがあり、その一角にピアノが置いてあった。彼女は私にちょっとした笑みを向けたあと、スタッフに訊いた。
 「このピアノ、自由に弾いていいんですか?」
「消灯時間以外はいいですよ。」
 彼女は、そのままピアノの前に座ると、ショパンの曲を弾いた。

 私は、やがて聞こえてきた曲が、その時彼女が弾いたものだと気づいた。

・・・・練習曲エチュード第3番」・・。


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