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「忿怒」・・怒りと調伏

   昨今の世の情勢を見ますと、我が国の状況も、世界全体の状況においても、何でしょう、一言で言えば、ヤリキレナイ状況です。ホントに「どうしたらいいんでしょう?」的な状況に陥っています。

 まぁ、こんな時ですから、あたしの専科でもある「仏教ネタ」でまいりましょうか、というか、そう考えなくてはやってられない状況が、世の中ホントに続いてますね。

 さて、したがって今回の仏教ネタのお題は「忿怒(ふんぬ)」です。

 忿怒相とは、文字通り怒りまくっていることですが、「忿怒」というのは、文字が示す通り、ただ怒ってるわけではございませんのです。

「忿」の文字は「分の心」とあります。

 つまり、怒り狂ってるのではなく、「分を弁えた怒り」とでも言うのでしょうか、そんな意味あいでょう。

 つまりコントロールされた怒りというものです


 かの空海が、最澄にその貸し出しをためらったとされる「般若理趣経」の第三段には、「降伏の法門~降三世明王の巻」というものがあります。

 これは、どういう内容なのかというと、まず、第一段、第二段において、ものごとのすべてのものは、この世界の絶対のの中で存在してるのだから、この世に起こる現象や、すべての営みというものの元は、そもそも善も悪といった分別もなく、もともとのものは「清浄なもの」であるという観点から考えるわけです。

 ですから、そもそも苦の根源とされている「三悪」すらも、あっちゃダメなんじゃなく、むしろある事に意義があるんだと、この経では言ってるわけなんです。

 これがあるのだと肯定するからこそ、それをうまくコントロールしていけという事なんですよ。

 つまり、怒りのベクトルの問題だという事が、この「忿」という言葉に込められている意味なんですな(* ̄▽ ̄)b

 そもそも「三毒」と呼ばれる、人の「怒り」とは、「貪・顚・痴」であると言います。つまり、

貪り(むさぼり=貪欲:自己の欲するものに執着して飽くことを知らない事)
顚り(いかり=顚恚:自分の心に逆らうものを怒り恨むこと)
痴しさ(おろかしさ=痴愚:根本の真理を知らないこと)

 という、人の心がどうしても持ってしまう、三つの心の「闇」でしょう。まともに見たら、どうしようもないアホの境地であるわけです。

 だから、こいつをなくせばいいじゃないか、幸せになれるじゃないか。と思うわけですが、さて、どうでしょうな、ホントに無くすことはできるでしょうか?というより、無くしたら、そこで人は人でなくなっちゃいます。 

 こんなのは現実的じゃないし、基本的に「仏教的」ではないんです。

 理趣経で言ってるのは、これらを「無くしちゃう」んじゃ人が生きる意味がないジャン?だからこそあっていいんだよ。と言っているんです。

 そうなれば、なんだ、テケト~に生きたり悪い事やったっていいんじゃないか、人間だもの。って論法になるんですが、そら~違うんですよ

 そもそも、この三つは人が生きている限りどうしても湧いてくるものなのだから、逆にこのエネルギーのベクトルを違うものに向けたらいいんでないか?という事を言っているわけですな。

 執着は「企画」の源、「顚り」は開発するエネルギー、「痴」はなりふりかまわぬ情熱と置き換えることができましょう。そもそもの制御がきいているのなら、この「三毒」とは実はエネルギーであるわけです。そういう原理をここで述べておるわけです。

 この仏像の忿怒の相とは、衆生の心をただす怒りという見方もありますけれど、あたしとしては、ゴールを決めた「をっしゃー」とか、三振とったピッチャーの雄叫び、仕事で、大取引決めた営業マン、悩んだ末プログラムがうまく動いた時のプログラマー、諸々の「仕事やった!」って顔に見えちゃうし、そもそもその表情なのだと思います。

この瞬間が実は「調伏」という現象なのだと言う事でございます。

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