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六道世界における「天界」

 私たちは「三界」というところにいるのだということを、
大乗仏教では、特に言っています。

 三界とは、「欲界」「色界」「無色界」の3つをいいます。
そして私たちが住む世界とはまさに「欲界」であり、
これが六道輪廻と呼ばれる世界だというのです。

この世界は、地獄から餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道で、
ひとは、このどこかに生まれ変わるというのですが、
そんな単純なものではなく、
仏教では、人そのものが「六道」にあるというのです。

 つまり、六道輪廻という考え方は、
仏教においては人の生まれ変わりの繰り返しというものではなく、
人が生きている中において
「六道輪廻」の中に生きているということなのだと言っているのです。

 そうであるならば、私たちは時には
精神世界に生き寛容で高貴になり(天)
泣き笑いしつつ幸福に喜び(人)
人と諍い互いに罵倒しあい(修羅)
愚かに何も解らずたださまよい与えられたことだけに生き(畜生)
果てしなくものを追い続け飽くことを知らず(餓鬼)
その結果不幸にあがく(地獄)

を人生の中で繰り返していないか・・。
という事です。

 すなわち、この世界(人生)にいる私たちというのは、
つねに「迷い」の中にいると言うことなのです。
ひとは、生きている限り、
なかなかこの輪廻からは抜け出せないというわけです。

ですから、「輪廻」とは生まれ変わりではなく
人生そのものの姿である。ということになるのです。

ということを前提に、今回は「天界」とは何だろう。
それを考えてみます。

天界とは天人が住む世界です。
天人は人間よりも優れた存在とされ、
寿命は非常に長く、兜卒天の一日などは
人間界の400年に相当し寿命は4000年と、
途方もない時間を過ごします。

また苦しみも人間道に比べてほとんどないとされます。
また、空を飛ぶことができ
享楽のうちに生涯を過ごすといわれます。

フーテンの寅さんに登場する「柴又帝釈天」の帝釈天も
天人のうちの一人です。

 よく有頂天という言葉を聞きますが、
有頂天とはこの色界の中の頂点(色究竟天 )のことを言っており、
有頂天になるとは「天界にいるがことくの幸福感」の状態にある
と言うことです。

だが、天界といえども六道の迷界の中にあるが為、
ここに住む天人もほかの六道に落ちるものとされているのです。
天人が寿命を迎えると、
  天人五衰といって、五つの徴候があらわれるそうです。
経典によって多少の違いはあるのですが、
大槃涅槃経によれば、

一・衣裳垢膩(衣服が垢で油染みる)
二・頭上華萎(頭上の華鬘が萎える)
三・身体臭穢(体が薄汚れて臭くなる)
四・腋下汗出(脇の下から汗が流れ出る)
五・下楽本座(自分の席に戻るのを嫌がる)

とあり、そうなって天人は
天界から去るものである。とされています。

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 なお、正法念経には、この天人の五衰の時の苦悩に比べると、
地獄で受ける苦悩もその16分の1に満たないと説いています。
天人は、快楽が多い分だけ
それがなくなるときの苦しみは増えるものなのだということです。

たとえば、権力や権威から落ちることは
凡人の何倍ものつらさを感じるという事からも、
この状況がわかるというものです。

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 現代人は便利になり、過去の人から見れば「天人」そのものでしょう
でもいざ、雪で電車が止まったり
停電などしたらあっという間に
不便きわまりない状況に陥るわけです。

六道を救うという「観世音菩薩」
この境地では「如意輪観音」という姿になります。
万能の「宝珠」を手にしながら
どのように使おうか、答えにあぐねている姿と言えるでしょう。
まさに『天人』そのものの姿です。




 

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