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あたしくらいの年代だと、そろそろそういう話が出てきますが、
このご時世、ほとんどが「葬儀終了」という知らせばかりです。
今後メインは「家族葬」になるのかな。

それはそれで良いかもしれないです。
少人数でじっくり「故人の生きた意味」を考える事になるからです。
人はなぜ「亡くなった人を悼むのか」を考えてみました。

仏教が示す根本的な真理ダルマの中として
「苦集滅道」という言葉があります。

これはどういうことかというと、 
あたしたちがいる世界は、「人間という存在」という観点で見れば
「自分の思うとおりになんかならない(苦)」がそもそもで、
そのことを基本としてできているのが今ここにある
「自らの内的世界(集)」であると事です。

すなわち、どうしようもないことなのになんとかなるとあがき、
思うとおりにならない事に悩んでいる存在。
それがおのれであるわけです。

 このことを「おのれの内的世界」だけだととらえるか、いや、この世に生きとし生けるものすべてにあてはまる摂理である。ととらえるかで「上座部」と「大乗」という二つの大きな仏教の流れになったわけです。

ですが、全体はとどのつまり「自分」の集合体です。
ですから、
究極に「ブッダの考えに近づき、自らを救う事で平安を得る(上座部)」
すでに自分は「ブッダと共にあるのだからそれに気づき、
気づけないものを救済する過程において自らがブッダとなろう。(大乗)」

これが、この状態を「知らしめる=悟るということである(滅)
というわけで、そのためにどのような生活や行を行うのか(道)
という真理探究のプロセスにおいて、両者が悟りにむかっているわけです。

これはまさに前振りなんですが、
そんなわかりきった大上段からみるよりも、
「どうしようもない心の動き」みたいなものに、
あたしはちょっと注目したい。

喪服

前振りでお話しした「お葬式」に絡めて言うと、
「愛別離苦」という言葉が浮かびます。

これは「愛するものとは必ず別れてしまう」という意味です。
「愛」とはいわば「執着」です。

しかし、永遠なる「物質」は存在しません。
必ずそれはなくなります。
なぜなら、「色」という言葉で表現するそのものは、
何らかの原因で生じた結果であって、その結果は次の原因を生みます。

その時点でもうその結果ではなく、
限りなく関係性の中で変化していくからです。
ですから、あると思う目の前の存在は、
次の瞬間にはもう二度と見ることも感じることもできないと言うことです。

失うことが哀しいのは、
こういった目の前の「結果」がなくなるという喪失感であり、
同じ縁は二度とないという、
限りない喪失感にさい悩まされるからです。
ですが、これは、こういった真理ダルマに気づけないがゆえに、
起こる現象です。
 
 縁は「原因と結果」とで成立しています。
亡くなってしまった人を悼むのは、
もう二度とこの人と「縁」を結ぶことがないという喪失感です。

ですがどうでしょう、亡くなった方は、亡くなることで、
ほかの存在に一つの「原因」を与えたことになります。
ですから、そのことで新たな「縁」をいただいたことになるわけです。

 亡くなった人を悼むということは、
そういう新しい「縁」をいただいたことに、
逝ってしまった方に対して感謝することでもあると思って、
あたしは、いつも手を合わせています。


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