見出し画像

”学校”という場所の価値。

最近、ますます
「学校ってなんのためにあるの?」っていう
疑問が大きくなっている。


公立学校であろうが
オルタナティブ教育の学校であろうが


子どもに
いっぱい詰め込んで

大人は
両手いっぱいに動き回って


私は一体
何がしたかったんだろう。



<学習指導要領の価値>

認可を受けることで
その場所は”学校”と
名乗ることができる。



そして
”学校”という名前と引き換えに
学習指導要領という
枠にハマることなる。


これまでは
認可を受けた学校に通って
初めて”出席”という扱いだった。


それが少しずつ
別の場所でも
”出席”として扱われるようになってきた。


少しずつ、
認可の学校に通う
社会的な価値が
下がってきていると思う。


それは、そのまま
学習指導要領の価値の
低下にも
繋がっていく。


その価値が低くなっている今、
”学校”の存在意義はなんだろう。



<方法じゃなく、内容の引き算を>

これまでは散々、
”学び方”を考えてきた。


でもそこが認可校である限り
結局、行き着かないといけない先は


学習指導要領の内容


学び方をどれだけ考えようが
ゴールが変わらない。


そして
日本の学習指導要領の
学習内容は
盛りだくさんだ。



それを学ぶ側
それを教える側


子どもも大人も
いつも両手いっぱい
抱えている。


両手がいっぱいだと
学ぶ意欲はそがれる。


何を教えるか
何を学ぶか

ではなく

何を教えないか
何を学ばないか


そんな”引き算”な話。
してみたら、どうなるんだろう。



<役割をすり替えない>

長い歴史を見れば
人は”学校”がなくても
育ってきた。


地域のつながりが
それを支えてきたのだと思う。


それが弱くなった今、
”学校”の
コミュニティとして価値
大きくなっていると思う。



その視点で考えるならば
”学校”は必要なもの。


でも”学校”はそれが
最上位の役割ではない。



”学校”は
子どもたちが社会で生きることを
練習する場所。


コミュニティがあるからといって
子どもたちの練習の仕方が
間違ってたら
本末転倒。


役割をすり替えて
いけないなって思う。




<何もしなくていい>

「あれも必要」
「これも大事」
「それもやらないと」



学校にいると
こんな言葉がよく飛び交う。



で、結局、
何が大事かも
優先順位も
分からなくなる。


もう何もしなくていい。
もう何もいらない。


今あるもので大丈夫。
今あるもので十分。


これ以上、詰め込まない。
これ以上、頑張らない。



そんな言葉を
担任の先生が
投げかけたら
子どもたちは
どんな顔をするだろう。



両手も
頭も
心も
空っぽにして

大人も子どもも
その軽さを実感すること。




何もしなくても
生まれるものがあることを
知った人は
生きるのが楽になる。


いっそ、

学習指導要領に
そういう目標を入れてくれれば
いいのに。



<”学校”だからこそ>

私はもう、
学習指導要領に縛られる
”学校”に魅力を感じない。


もっと自由で
もっと空白のある
そんな場所で
子どもたちが学べたらいいなって
思うから。


どんな手法も教材も
学ぶ意欲があってこそ
役立つもの。


決められた課題
与えられた教材に
人はどれだけ学ぶ意欲
持ち続けられるだろうか。


でも”学校”はこれからも
続いていく。



きっとこれからも
多くの子どもたち
通い続ける。


そんな
”学校”だからこそに
もっともっと
余白や空白を
大事にしなくてはいけない。


意図があることが教育ならば
余白や空白を意図的に用意する。


そうしないと
”学校”という場所の価値は
ますますなくなっていくと思う。






















サポートしてもらえたら、飛び跳ねるほど喜んで、もっと良い記事を書こうって頑張る子です。よろしくお願いします♪