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LifeStory Ⅵ オランダのJenaplanが教えてくれたこと

イエナプランは
オランダ語で
Jenaplanと表記される


Jenaplan教育は、
その人がその人らしくあること
尊重する。


その上で、
人と人、
人と自然が
どうすれば共に生きることができるか
を学ぶ。


世界には、
大人たちの不毛な争い
傷つけられている子どもたちが
山ほどいた。


教育現場にも、
社会の都合によって
傷つけられている子どもたちがいた。


大袈裟で、綺麗事だけど
私とってJenaplanは、
”世界中の子ども達が幸せに生きるため”
の手段だった。


Jenaplanの創始者である、
ドイツの教育学者ペーターセン
第1次世界大戦で、
3人の兄弟を亡くしている。


もう二度と、
こんな悲劇を繰り返さぬよう
と願っていた。


そんな彼が作った教育だからこそ
たくさんあるオルタナティブ教育の中で
私は、Jenaplanを選んだのだと思う。

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<10名という条件>


2017年
世界で初めて日本人向けに行われた
イエナプラン専門教員養成研修


主催は、オランダにある民間の研修機関
Jenaplane Advice & Scholing(JAS)


本来は、
オランダの教員が
2年間に渡って受ける研修。


それを
3ヶ月に凝縮
したもの。


参加を決めたと言っても、
研修に参加する人数が少なければ、
採算が取れないため
催行されない研修だった。


当時、日本のイエナプランは
今ほど知名度がなく
最初は2016年に開催を予定されていたが
申込者が最少催行人数の10名に達せず
中止となった。


2017年も10名集まらなければ
二度と企画されない可能性もあった。


教員には、研修による休職制度があるが
この研修はその対象外。
教員が参加をするには
“退職”が必須だった。


研修費や渡航費、
その他の費用を含めると
3ヶ月で少なくても150万円は必要


さらに、
イエナプラン専門教員の免許を取っても
それを生かせる土壌が
日本に確保される保証はなかった。


ハードルは高いが、
メリットが少ない研修。


10名を集めるために
仲間と相談して
いろんな方法で宣伝をした。


催行未定が続く中でも、
退職の手続きを進めた。
例え、研修が催行されなくても
独学でもいいから
オランダに行くことを決めていた。


結果、12名のメンバーが集まり
無事に2017年9月からの催行が決まった。


費用を全額
アルバイトで稼いできた大学生。


研修を機に
家族でオランダ留学に踏み切った
小学校の先生。


出資者を募り、資金を調達した
高校の先生。

などなど
パワフルなメンバーが揃っていた。


Jenaplanは
こうやってたくさんの人に魅了して、
発展してきたのだと思う。

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<大日向小学校へのエントリー>


時系列的には、
オランダ出発前に、
大日向小へのエントリーをしていたから、
ここに書き加える。


2015年に
イエナプラン教育協会から声が掛かり
事務局をやっていた

そのため
大日向小の開校については
比較的、早めに情報を得ていた。


最初は
長野は遠い
家族がいるから、移住はできない。
働くのは難しい
って考えてた。


2017年3月
オランダ出発の半年前
協会メンバーと視察に訪れ
校舎を見た

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ここが
“日本で初めてのイエナプランスクールになる”
そう感じたら、
やっぱり働きたくなった。


教員の募集は
2017年6月から開始された。

合格すれば
長野への移住が決定する。

幸い、息子の大学進学と
大日向小の開校は同じ年。

パートナーも
「会社に転勤届けを出す」と
言ってくれた。


それでも
応募期間の最終日まで迷い続けた理由がある。


それは
日本のイエナプランは
イエナプラン的なプロセスを
経ているのだろうか?
という疑問


”本当の”イエナプランスクール
できるのだろうか。
という不安


でもやる前に諦めたら
後悔するだけだと思ったから
期日最終日の夕方
思い切って、エントリーのボタンを押した。


3次まで試験があり
オランダ出発までには全て終えた。


そして、10月のオランダで
合格通知を受け取った。
その日のブログは、こう綴っていた。

うれしいニュース。
2019年に長野県で開校予定のイエナプランスクールの教員採用選考。無事、最終選考を合格して、採用が決定した。
日本で初めてのイエナプランスクールで働ける。自分の進む道、迷って考えて、考えて迷って、後悔だけはしたくないと覚悟を決めてエントリー。
不安なこともあるけれど、ここでの学びが生かせること、次へのステップに進めること、それがとてもうれしい。
もう体をジタバタさせちゃうくらい喜んだ。
10月17日。今日は、良い日だ。      
あっぱれ。ぱれ。

ブログ「10/17 今日は良い日」より

相当嬉しかったみたい。




<オランダという国>


日本の九州ほどの面積。
自然が豊かで、森が多い。
山がない代わりに、美しい地平線がある。

人々は、陽気でお喋り好き。
ユーモアに溢れていて
親切な人が多い。


暮らしには、とにかく余裕がある。
同一労働・同一賃金がベースになった
ワークシェアリングの制度があるため
週5日働いている人はほとんどいなかった。


校長先生でも週4日勤務で、
毎日16時には退勤。
バケーションも長い。


いろんなお店が20時には閉まり
日曜日は定休日で、電車の本数も減る。


平日でも、家族や友人とご飯を食べた後
ゆっくりお茶やお酒を飲みながら
長いお喋りをする。
そんな日常。


仕事の合間に遊ぶというより、
遊びの合間に仕事をしているような感じ。


家族ファーストな人が多いが、
離婚率は低くない。
自分に正直な人が多い。


ドラッグや売春が合法で認められており
多様性や寛容性が非常に高い


歴史とともに作られた
“違いを許容する文化”が
根深い


自分の意見をはっきり言うが、
相手の意見もしっかり聞く。


人権意識が高く
人がどうすればHappyに生きられるかを
よく知っていて、
それを当たり前のようにやっている


教員のストライキの日が
年に数回、定められていて
お祭りのようなイベントをする


すでに日本よりはマシな
労働環境の改善
ノリノリの音楽とともに
訴える。
その日は、すべての学校がお休みなる。


日本の教員の働き方を教えると
オランダ人はみんな、
口をあんぐり開けて、驚いた。


そして真っ直ぐな目で
「気は確か?」
と聞いてきた。



子どもは、子ども。
日本と大差はない。

すぐにふざける男子。
彼らのアンポンタンな行動をとがめる女子。
日本の学級にも、あるあるな風景。


街で見かける子供達には
落ち着きがあった。


レストランやスーパーで
大きな声で駄々をこねるような子は
一度も見なかった。
基本的に、マナーが良かった。

社会全体的に
いろんなことがゆるい分、
いい加減なことも多かったけど
余裕があるからこそ
それもいい塩梅。

そんな国だった。

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<Jenaplan スクール>


オランダにあるJenaplanスクールは
当時で約200校。
それは全体の3%程度。


オランダでも
オルタナティブ教育は少数派。


そして全てのJenaplanスクールが
素晴らしいわけではない。


3ヶ月で5校の学校を視察したが、
すごいなって思える学級は、2つか3つ。

ブロックアワー(自立学習)にも
ワールドオリエンテーション(探究学習)にも
課題がない学校はなかった。


多様性と寛容さに富んだ国でも
Jenaplan教育をするというのは
簡単ではない


ホストマザーだった校長先生から
「完璧なJenaplanスクールなんてない。
大事なのはプロセスよ」

と教わった。


その言葉通り、どの学校も目先の課題ではなく
それをどう乗り越えるかを大切にしていた。

失敗を恐れず
批判的な意見を真摯に受け止め、
誰もが、
”子どもにとって”
何がbetterなのかを考える


ミーティングをしていても
態度や発言がフラットだから
職員の経験の深浅や
役職が分からない


でも着実に
信頼できるリーダーシップの元
チームが動いていた。


Jenaplanスクールは
早いスピードでの
変化と進化を繰り返して
つくられていく。


そのプロセスそのもの
Jenaplanだと学んだ。



“大人”と“子ども”
境目がなく

“教師”と“保護者”

境目もなかった。

いつも学校には
“人”しかいなかった


1927年
Jenaplanはイエナプランという名前でなく
「人間の学校」という名前で
発表されるはずだった


約100年後のオランダには
確かに「人間の学校」があった。

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<Jenaplanは、特別じゃない>


私が最も尊敬するJenaplanの先生。
ヒュバート。
彼にこんな質問をしたことがある。

「あなたにとってのJenaplanって何ですか?」


彼は即答した。


「家にいるような感じだよ」


「世界中の子どもたちが幸せに生きるための手段」
と考えていた私は、拍子抜け。


家にいるときはリラックスをしていて、
ヒュバートにとっての
Jenaplanは
それと同じってこと。


自分で選び、決めることも
誰かとともに、生きることも
学びと暮らしを、つなげることも
人が生きる上で、自然なこと


人が人らしく育つために
Jenaplanは何も特別じゃない

「肩の力を抜いてごらん」
そう言われた気がした。

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<研究領域>


この研修は
3ヶ月の受講と、
帰国後の研究発表を経て
修了となる流れだった。


研修が残り1ヶ月になった頃、
メンバーそれぞれの研究領域を決める
タイミングが来た


私が選んだのは、
「日本におけるJenaplan教員研修」


これはまさに
公立学校でJenaplanを実践する中で
私自身が、欲していたものだから。


教員研修の内容を考える上で
最初に取り組んだのは、
アンケート調査。


日本の教育現場で
Jenaplan、もしくはそれに似た教育法を
取り入れて実践をしている人々を対象にした。


質問は3つ。
A 実践において、良かったと思うことは何か?
B 実践において、課題だと思ったことは何か?
C その課題を解決するために必要だと思うことは何か?


全部で50名の方が引き受けてくれて、
私の元には、大量のデータが集まった。


日本でJenaplanを実践する上では
たくさんの課題があり
それを解決する方法は
主に5つに分けられた。


①知識の習得
②実践方法のモデル
③共有できる仲間
④マインドチェンジ
⑤制度・システムの転換


これらにアプローチする教員研修の研究は
オランダで完成することはなく
大きな宿題として持ち帰った。


<声なき国・日本>


オランダという国が
私にはあまりに素晴らしく

もともと見失っていた
日本の良いところは
ますます見えなくなった


オランダ人は、自国を
“行き過ぎた個人主義”
“自分勝手で利己的な人が増えている”

嘆いた

日本の
“全体のために動く”
“奉仕する文化が素晴らしい”

褒めた


でも私はそう思わなかった


滞在中、日本では
突然の衆議院選挙が始まった。
投票率は、53%。
戦後2番目の低さだった。

その時のことをブログに残してた。

日本っていう国は誰の国なんだろう。
メディアは政治を叩く。
誰かの失敗をみんなで叩く。
不満や不安がはびこる。
でも投票率は約半数。
誰が何を求めているの分からない。
誰が何に怒っているのか分からない。
自由も平等も訴えない半分の人たちがいる。
声がしない。何も見えないし、聞こえない。
無音。

(中略)

オランダという国が分かりやすいのは、
音がするからだと思う。声が聞こえるから。
それが多様な価値観がある社会で生きるための
武装だったとしても
声を発しているから
そこに誰が存在しているかが見える。
何を求めているかが分かる。

ブログ:「10/22  声がある国」より

日本は
全体主義にも
個人主義にも
なりきれていない


「私はこう考える」
「僕はこうしたい」
そんな「声」を聞くこともできない
声なき国・日本


声ある国・オランダが
より羨ましくなった


日本へ帰りたい理由が
家族に会う以外はなくて


日本をどれだけ嫌いになっても
私の帰る場所は、そこしかない


3ヶ月間
このジレンマ
付き合ってた



<研修の結び>


Jenaplanを学びにきたはずが
そんな領域はとっくに超えていた


民主主義の社会で生きるということの
心地よさと、難しさを知り、

日本というコンフォートゾーンを抜け出して
どれほど自分らしく生きる力をもっているのかを
試し続けた3ヶ月。

幸福度が高いとされる国であっても
誰もが、自分の不完全さと向き合いながら
生きることを楽しんでいた

そして、忘れてはいけないこと。


子どもが幸せに生きる社会には
幸せに生きる大人がいる
ということ。


研修最終日。
Facebookに1万文字を超える投稿をしていた。
「気は確か?」と、当時の自分に聞いてあげたい。
最後の部分だけ抜粋。

この国やこの国の教育は特別ではない。
おそらく特別な国や教育など、世界には一つもないだろう。
どの国も同じような課題を抱え、それらと共存しながら命をつないでいる。

母国と違うシステムや制度は一見、魅力的にも見えるだろう。
けれど、それは間違いなく世界の誰かが作ってきたもの。
そしてそれを動かしていくのも世界の誰かだ。
この研修のまとめにふさわしい言葉を、仲間との対話から受け取った。
その言葉でこの研修を締めくくろうと思う。

国は違えど
「教育は人なり」
そして
「人は人で成る」

12/7 facebook投稿 「3ヶ月のまとめ」より


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オランダのJenaplanと
日本のイエナプラン


オランダのJenaplan

ヒュバートが言ったように
「家にいるような感じ」だった


物事には光とがある。


オランダのJenaplanは
どちらもオープンにされていて
どちらにも触れることができたから
どこにいても安心だった。



でも私にとって
当時の日本のイエナプランは少し違った。


光ばかりがあって
影に触れられない場所。


自分らしさよりも
イエナプランナーらしさ
求められる場所。


大日向にエントリーする時に感じてた疑問と不安
オランダのJenaplanを知ったことで
確信に変わっていた。

日本のイエナプランを
すればするほど、苦しくなり
自分の歩いているレールの先に
目指しているものはない気がした。


あくまでも
これは私の感覚



そう感じない人もいるし
同じように感じても
そういう壁を勇んで
乗り越えていく人もいる


人は費やした時間と労力の分だけ、
しがみつきたくなる

でもごまかしながら
続けることがどうしてもできなくて


それならいっそ


”私にはできない”
って認めてしまおうって思った。





2017年12月末に無事、帰国。


数日後、
日本イエナプラン教育協会の事務局
をやめた。


そして、2019年に開校を控えた
大日向小の辞退を考え続ける
2018年を迎えた。


サポートしてもらえたら、飛び跳ねるほど喜んで、もっと良い記事を書こうって頑張る子です。よろしくお願いします♪