瞑想とはエゴを物理的に「あやす」こと

何か嫌なことを言われたりして腹が立って仕方がないときや、いつまでもそのことが頭から離れて仕方がないとき、いくら「自分は青空であって、それで荒れ狂う嵐のほうではない」と自分に言い聞かせたところで、腹が立つものは腹が立つし、それで気持ちが落ち着くということもない。

結局のところ、「自分は青空であって〜」云々というのも「思考」であって、いわば「理知的なキャラ」のエゴに過ぎないのである。

エゴでもって他の「怒り狂った」エゴをなだめようもしてもうまくいかないらしい。エゴとエゴのぶつかり合い、どっちかが正しくてどっちかがまちがっているという潰し合いにしかならないのだろう。世の中で見られる争いもそういうことなのかもしれない。

このことは、瞑想をしてみるとよくわかる。

20分でも目をつぶって深呼吸を繰り返してマントラでもぶつぶつ心の中でつぶやいていると、なんだかんだと気持ちが落ち着いてくる。

瞑想を終える頃にはだいぶ穏やかな気持ちになっていることに気付く。

これは理屈ではないということだろう。理屈というのは「思考」のことで、エゴを構成する成分のことであるが、これでもって荒れ狂う他のエゴをなだめることは難しいのだ。

エゴは自分を否定されるとますます意固地になるという性質があるらしいからだ。

瞑想というのは、そもそも「思考」を働かせないようにする行為である。エゴと戦おうとせずに、そっと関心を離すことで眠らせようということである。

機嫌を損ねてぐずる赤子を母親がよしよしと抱き上げて、母親の温もりに包まれてすっかり安心するような感じに似ている気がする。

瞑想によって心の深奥にある大きな温もりに少しでも触れられれば、エゴは意外と簡単におとなしくなるらしいのだ。

この「心の深奥にある大きな温もりに触れる」という物理的な行動こそが、「自分は壮大な青空であって、そこで荒れ狂う嵐のほうではない」ということを本当の意味で体現することになるということのようだ。単に頭で「自分は青空であって〜」と考えてもダメなのである。どんなに理知的で的確な「思考」であったとしても、それは結局のところエゴに過ぎないからだ。


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