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【映画レビュー】『映画 聲の形』~<共(コモン)>としてのコミュニケーション~

 校庭の遊具に手をかけた右肩に小石が二度ぶつかって跳ね落ち、それに気づいて振り向く西宮。「お前さぁ、もっとうまくやらねぇとウザがられちゃうんじゃねーの?」という石田の声が聴覚にバンディキャップを持つ西宮の耳にはもとより届くはずはないのだが、建物に沈みかけた夕陽が拡散する光に背中を包まれ影を帯びた西宮が両手を胸の前で組み合わせ、「ともらち」という声を発しながら、手話によって応答する。
 このダッチアングルで捉えられた逆光のショットはそのタイトルの一部でもある『聲の形』がこの映画において初めて出現する瞬間である。手話とは、純粋に形であり、身振りとしての声にほかならないからだ。それは、同時にコミュニケーションにおける身体の力能を際立たせるものでもあるはずだ。
 しかし、この『聲の形』は石田が「気持ち悪い」と西宮にぶつけた砂埃が舞い上がる中、あっけなくかき消されてしまう。西宮の手話を見た直後のはっとしたような表情の石田のサイドからのクローズアップは、それが不幸な出会いでもあったことを物語るものだ。これ以降、西宮と周囲のクラスメートの間に明らかな分断が生じていく。そして、この対立的で不幸な出来事として終わった=完結させられた小学生時代の出会いはそれ以降、彼らが抱える苦悩であり、トラウマでもあったことがその後の物語で明らかになるのだが、高校生となって再会した西宮に石田が両手を組み合わせて手話で話しかけるという逆のポジションからのアクションによって、再び未完結なものとして開かれ、改めて出会い直されることにもなるのだ。
 本稿では、アトム化した諸個人が喜びに満ちた出会い=コミュニケーションの回路を開き、その生の力能をいかに増大させ、孤立から抜け出していけるのかということに焦点を当て、『映画 聲の形』(山田尚子、2016)を分析していくこととしたい。

1.足元のエモーション

 車が行き交う橋の上を左から右へと歩いていく石田のサイドショットから欄干の下部を映した画面に切り替わり、クローズアップされた足元が現れて川に向かって立ち止まる。その手前を裸眼では確認できない速さでビュッという音とともに車が瞬時に往来していく。
 石田が鉄橋の欄干から川に飛び込もうとする冒頭の場面だ。この車の往来に背を向けた足元へのローアングルのクローズアップは石田が社会的関係において孤立させられていることを明らかにしているシーンであろう。
 このように、この映画作家の代名詞ともいえる足元へのショットは『映画 聲の形』においても多用されており、その著名が至る所に刻印されている。同時にそれは登場人物たちの関係性をエモーショナルに表現するショットともなっているのだ。
 オープニングクレジットの開始直後の小学生時代の石田、クラスメートの島田と廣瀬の足元へのクローズアップに注目してみよう。小川の水面をバックにした橋の上を軽やかに歩くシーン、橋の縁を蹴りあがるシーンがいずれも三人の足元のクローズアップにより描写され、川に飛び込こもうとする三人のスローモーションがタイトルロゴとともに青空をバックに浮かびあがる。この一連のシークエンスにおける足元のクローズアップは溢れ出すエネルギーと共に彼らの透明で無邪気な関係を明示しているともいえよう。また、石田の足元の、白地に黄色のトゥと青緑色のアッパー、オレンジ色のソールに彩られたスニーカーはその後も度々登場し、その印象的なデザインにより過去と現在をつなぐ大切なツールにもなっていよう。
 西宮が初めて登場するシークエンスでの足元のローアングルも重要だ。廊下を歩く石田のズック靴の足元、西宮のそれが同一のリバースショットでつながれ、あたかもそこで対峙するかのようなイマジナリーラインが形成されるが、西宮の足元のクローズアップから教室のドアの前に立つロングショットへとキャメラは移行し、二人が出会わなかったことが示される。この足元の切り返しショットは二人を強く引きつける磁場を発生させるとともに、出会い損ねを先取りし、その後の説話論的な方向性を規定していくことにもなっている。
 また、小学生時代の西宮とクラスメートたちとの関係性も様々な足元へのショットにより表わされている。教室内のモップを持った複数の足元へのクローズアップと談笑するクラスメートたちから少し離れたところで窓を拭く西宮のショット、校庭を歩く複数の足元から少し間をおいて小走りでおいかける足元へのクローズアップ、それが植野たちクラスメートたちと西宮との関係であることを明らかにするロングショット、1人残されて校庭の遊具の前を歩く西宮の足元を追いかけるローアングルのパンショットなど、ここにおいても足元へのショットは西宮が周囲から孤立していく様子を浮き彫りしている。
 一方、足元へのショットは孤立から新たな関係を生成していく場面でも使われている。それは、西宮への偽善的な態度を詰問する結弦(西宮の妹)に対して石田が懺悔の気持ちを素直に告げる、雨の中を歩くシークエンスだ。路上を歩く結弦の裸足、石田が差し出す小学校時代のスニーカー、そのスニーカーを履いて歩く結弦の足元、石田の傘の隙間から見える結弦が履いたスニーカー。それまでの二人の関係に変化が生じ、スニーカーを媒介にして二人が繋がる=信じるようになる、新たな関係を作り直すプロセスをキャメラは足元へのクローズアップを効果的に挿入しながら捉えていこうとする。
 そして、時として足元だけでなく、ひざ下全体へのショットが表情以上にエモーショナルな表現を帯びることもある。石田への告白が通じなかったことを結弦に告げるシーンにおいてカーテン越しにフレームを作り、西宮がベッドの上でひざ下をパタパタとばたつかせるショットが挿入される。普通ならば、表情のクローズアップだけで描かれてもおかしくはない場面において、ひざ下の何気ないアクションによって西宮の身体の中に蠢く情動、「生のフロー」というべきものを見事に描いていることがわかるだろう。

2.流れだす水=生のフロー

 物語の舞台が「水門市」と名付けられた街であり、オープニングショットにおいても黒い画面いっぱいに幾重にも広がる光の波紋が、鯉の生息する川の水面の波紋へとオーバーラップしており、この映画は常に/既に水のイメージにより浸潤されているといえよう。
 それは、公園の屋根から水が流れ落ちる休憩スペースで鳩に餌をやる西宮、祖母の葬儀場の中の水槽の傍に立つ結弦と西宮など些細な場面においてさえ水のイメージが噴出していることからもわかるだろう。そのうえ、水のイメージを重ね合わせた秀逸なショット-手前に公園の屋根から流れ落ちる水、その奥で祖母の死に際して涙を拭う結弦を配置したクローズアップ-さえもさり気なく挿入されているのだ。さらには、転校してきた西宮が立つ教室の入り口前の廊下や石田がシャープペンシルの芯を突き立てる机などが水面のように生成し、水が出てこない場面においても、水のイメージを喚起するショットが散りばめられている。
 また、ロケーション上もネーミング上も水の近傍にある「水門橋」という橋が何度も、石田たちが待ち合わせ、出会い、集う場所となっているように、人が出会う=コミュニケーションを交換する場面においては、フローとしての水のイメージが伴っているのだ。その水の流れを人々が生きることのフローに置換してみると、この物語においては、コミュニケーションを分断する力(水門橋の「水門」とは水の流れを制御するものでもある)に拮抗して、新たな関係を生み出していこうとする生のフローが潜勢力として常に流れていることがわかる。
 石田たちの生のフローを堰き止めるきっかけとなった、石田が西宮の筆談用ノートを小学校の観察池に投げ込むシークエンスに着目してみよう。
 校庭で西宮が差し出す「ごめんなさい」と書いたノートを取り上げ、「友達になりたい」という両手を握った西宮の手話のクローズアップが、ノートを池に投げ込む石田の片手のアクションによって廃棄されてしまう。生のフローに欠かせないコミュニケーションが分断されるプロセスを手のアクションの連鎖によりとらえたものだ。この手をとらえた二種類のショットは西宮がノートを拾いに池に入るシーンを呼び込み、それを見る石田の目のクローズアップが島田と廣瀬を見る主観ショットへとオーバーラップし、水に浸かる音が聞こえる中で逆に石田自身が観察池に浸かっているというシーン-ここでもノートから水の雫が落ち、水面に波紋が広がっている-へと変換される。それは石田のポジションが変位したことを水に落ちるというアクションの中で示したものでもある。高校生の石田の周囲の顔に張られたバッテンの徴が象徴するように、これ以降、石田の社会的な生のフローも堰き止められてしまう。
 このコミュニケーションの分断からの回復が、時と場所を変えて同じ水に落ちるというアクションの反復の中で企図されることになる。水門橋の上で高校生となった西宮と石田が小学生時代の筆談用ノートの取り合いとなり、川に落として彼らも飛び込むというシークエンスだ。
 西宮が手話により「ありがとう」と伝えて、ノートの中を読もうとする。そこに書いた内容を恥じらい、取り上げようとして伸ばした石田の手とそれを拒むように高く掲げて掴む西宮の手が交錯し、ページがはらりはらりとめくられながら、彼らの手から離れてノートが宙に浮かぶ。川に落ちたノートを拾うために欄干によじ登って飛び込む西宮の左手に、それを制止しようと石田の伸ばす右手が近づきながら離れていく。
 この一連の手のアクションのクローズアップにおいて、石田が西宮の筆談用ノートを小学校の観察池に投げ込むシークエンスが形を変えて反復されていることがわかる。分断されたコミュニケーションを回復しようとする手のアクションの連鎖といえるものだ。二人の手は結ばれることはなかったものの、掴み取ろうとする意志がそこに芽生えているのだ。そして、ノートとは彼らの苦悩=トラウマが物質化されたものであったこともわかるはずだ。西宮がノートを開いて読むというアクションによって堰き止められていた生のフローが再び流れ出そうとしており、そのアクションは不幸な出来事として終わった=完結させられた出会いを再び未完結なものとして、文字通り開き、改めて出会い直すことのモメントともなっているのだ。
 このように、この映画における水に関わる特権的なアクションとして、水の中に落ちることが何度も繰り返し行われている。それは、オープニングショットの波紋が既に予兆していたように、物語を起動させ、水面に広がる輪のようにエモーションを辺りに波及させていく、基幹的なアクションとなっていることを教えてくれるだろう。

3.手に宿る愛のアクション

 永束が石田に促して差し出させた手のひらを自分の手で上から軽くなぞった後、今度は自分の手のひらを差し出し、指を曲げて促すと、石田の手が一瞬躊躇しながらも永束の手のひらを上から軽くなぞる。離れようと宙に浮いた石田の手を永束の手がすばやく摑まえ、開いたままの石田の手がすこし呼吸を置いて永束の手を握り返す。これは、「友達の定義は何か。友達になる権利や資格はあるのか」と聞く石田に対して、永束がポテトにケチャップを付けてタバコに擬態させるという生成変化を涼しげにやってのけながら、「友情は言葉や理屈を越えた所にある」と説くシークエンスにおける、手のアクションシーンの素晴らしいクローズアップショットだ。しかも、永束が正しくもこの一連の手のアクションを「これが友達だ」と定義する。
 この場面が明示するように、この映画においては、手のアクションが生のフローに欠かせないコミュニケーションの回路を開く重要な役割を担っている。例えば、先述の石田と結絃が繋がる=信じるようになる、新たな関係を作り直す雨の中のシーンでも印象的な手の動きのクローズアップが使われていた。そして、既述した筆談用ノートが水の中に落ちる二度のシークエンスにおいても明らかなように、手のアクションは主として水に落ちることという基幹的なアクションの近傍で起きているのだ。
 水に落ちることによって手を掴み取るアクションが生まれるのが、マンションのベランダの欄干から飛び込もうとする西宮を石田が掬い揚げて、自ら川に落ちることになるシークエンスである。
 打ち上げられては輝く花火が遠くに見える中、ベランダの欄干に立つ西宮の後ろ姿が風に吹かれてなびくカーテンに包まれ消え去り、無音の中で夜空いっぱいに飛び散り広がる光の粉がまばゆく輝きながら、光線の雨となって夜景を斜めに横切るショットが挿入される。一転して暗い壁を背景に石田の腕をとらえたキャメラがティルト・ダウンし、その手が西宮の手首を掴んだ緊迫した画面に切り替わる。石田が両手で摑み直すシャロウフォーカスの後、サイドからクローズアップされた石田の顔面から噴き出る汗が頬を伝わり、雫となって闇に落ちていく様子が俯瞰ショットにより捉えられる。この後、西宮を掬い揚げた石田も川に落ちることになるのだが、この水に落ちること―汗と石田自身―と共に、手を掴むというアクションがさらに強度を増して生起していることがわかる。
 ここで冒頭の石田が陸橋の欄干に登って河川に飛び込もうとするシーンを思い出してみよう。孤独に広げられたままの彼の両手には、手と手をつなぎ合わせようとするアクションが生まれる余地はなかったのであり、必然的に川に飛び込むこと=水に落ちることのアクションが起きることもなかったのだ。
 西宮の手を両手で摑みながら「明日からみんなの顔をちゃんと見ます、明日からみんなの声をちゃんと聞きます」と石田が誓うように、このシークエンスは、孤立した状態から抜け出し、勇気をもってコミュニケーションの回路を開いていこうとする、この映画における大きなターニングポイントとなっている。「怖いかどうかは乗ってから決めることにした」というジェットコースターに乗った佐原の忘れがたい言葉がこの場面に回帰していることが確認できよう。
 また、このシークエンスにおける石田の汗が雫となって零れ落ちるショットは、家から駆けだしてきた西宮が水門橋の上で嗚咽をもらして泣く、美しいシーンへと視覚的な共鳴関係を形作っていく。水門橋の上に立つクローズアップされた西宮の瞳から溢れ出し、頬を伝って顎からこぼれた涙は、夜光に映えてピンク色の雫となり、月の映える川の水面に落ちていく。その様子が俯瞰ショットにより捉えられ、石田の汗が西宮の涙へと接続されているのだ。
 そして、ここにおいても水に落ちるというアクションが生のフローを流れ出させる上で決定的な手のアクションを召喚することになる。
 この西宮の涙のシーンの直後に、病院から駆け出してきた石田と水門橋の上で再会するシークエンスにおける手のアクションだ。「生きるのを手伝ってほしい」と話して距離を縮め、組ませた西宮の手を包み込むように両手で触る石田。小指を絡ませる「約束」という手話を夜空に掲げて応答する西宮。ここで交わされる、手のアクションは生のフローを一気に流れさせ、生の力能を増大させる愛のアクションともなっている。この手に宿る愛のアクションが互いに「生きるのを手伝う」という連帯(アソシエーション)へと後押ししていくのだ。そして、このシークエンスもまた、オープニングショットと同じ鯉の生息する川の水面に生じる波紋と共に閉じられている。

4.<共(コモン)>としてのコミュニケーション

 教師に促されて、ポンっと右肩を叩かれると、転校してきた西宮がランドセルから筆談用ノートを取り出して、自己紹介の言葉が綴られたページをめくりながら、このノートを通じて話をしたいと伝える。ノートの紙面とそれを見る石田の表情が交互にクロスカットされていき、不意に現れた「耳が聞こえません」という文字が書かれたページに至ってクラスメートたちがざわめき、「ヤッベ!」という奇声を発する石田のバストショットをキャメラがトラックバックによりとらえていく。
 この聴覚にハンディキャップを抱えた西宮による筆談用ノートという未知のコミュニケーションの登場場面は同一性のコミュニティに投げ込まれた特異性が水面の波紋のように静かに広がり、障壁にぶつかる様子を捉えたシーンであり、今後の不幸な出会いを予感させるものだ。そして、その特異性が『聲の形』となって露わになる手話の出現は、それを受け止めきれないコミュニティのバランスを徐々に崩していくことになる。
 この小学校時代のエピソードは、特異性を排除し、同一性によって囲い込むことによって、コミュニケーションを妨げ、分断し、さらに新たな孤立を作り出し、人々の力能を弱体化させていくプロットとなっている。学校という<共>的空間から<共>の場を引き剥がし、手話という身体の力能を駆使したコミュニケーションが否定されていくプロセスでもある。
 この結果、アトム化した個人として過ごす高校生の石田は、「目を合わせずに黙って人とすれ違い、<共>的空間に見えない壁を作り、まるで皮膚が硬化して感覚を失ってしまったかのように接触に無反応になる」(アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート『コモンウェルス』)。学校という<共>的空間で出会うはずの周囲のクラスメートや教師たちの顔にバッテンの徴を付してコミュニケーションを遮断しているのだ。
 一方で、高校生となった石田は手話を取得し、身体の力能を増大させる手段を身に着けてもいる。『聲の形』である手話=手のアクションが再会した西宮とのコミュニケーションの回路を再び開き、石田自身も意識しない中で、さらにその身体の力能を活発化させ、疎遠になっていた小学校時代のクラスメートとの再会や永束との新しい出会いなどさまざまな特異性同士の出会いを導いていったことがわかる。そして、前述のような水に落ちることの近傍で生じる手に宿る愛のアクションの連鎖が、互いの身体を触発し/触発され、「生きるのを手伝う」という<共(コモン)>的な関係を創出し、さらに生のフローを拡大して、その力能をより大きくさせていったのだ。
 ラストシーンにおける、周囲のあらゆる人々の顔からバッテンが剥がれていき、嗚咽をもらしながら溢れ出す涙を両手でぬぐう石田のクローズアップ。コミュニケーションを遮断したアトム的な存在であった石田が新たな存在、あらゆる者に対して開放的であり続ける<共(コモン)>的な存在へと変貌した瞬間を捉えた感動的なショットだ。
 コミュニケーションとは人々が共有する生の様式であるとすると、『映画 聲の形』とは、孤立し脆弱であった人々をより力強く、より大きな喜びに満ちた存在へと変貌させる、<共(コモン)>としてのコミュニケーションを取り戻す闘いであったとひとまずは言えるのではないだろうか。

                          2019年12月28日

クレジット
監督: 山田尚子
声の出演:入野自由、早見沙織、悠木碧、小野賢章、金子有希、石川由依、潘めぐみ、豊永利行、松岡茉優、小島幸子、武田華、小松史法、谷育子、鎌田英怜奈、濱口綾乃、綿貫竜之介、西谷亮、増元拓也、ゆきのさつき、平松晶子
原作:大今良時(講談社コミックス刊)
脚本:吉田玲子
キャラクターデザイン:西屋太志
総作画監督:西屋太志
美術監督:篠原睦雄
色彩設計:石田奈央美
設定:秋竹斉一
撮影監督:高尾一也
編集:重村建吾
音響監督:鶴岡陽太
音楽:牛尾憲輔
音楽プロデューサー:中村伸一
主題歌:aiko『恋をしたのは』
音楽制作:ポニーキャニオン
アニメーション制作:京都アニメーション
製作:映画聲の形製作委員会(京都アニメーション/ポニーキャニオン/ABCアニメーション/クオラス/松竹/講談社)
(2016 / 日本 / 129分)

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