山上容疑者による安倍晋三元首相への散弾銃での銃撃射殺事件は、選挙中だから「テロ」だとか政治家だから「テロ」と解釈したくなるのは、かっこつけにすぎない、事実は個人の怨恨の果ての殺害である
母を破産させ、家族を崩壊させられた宗教団体・統一教会への復讐が動機の山上容疑者による安倍晋三元首相への散弾銃での銃撃射殺事件は、選挙中だから「テロ」だとか政治家だから「テロ」と解釈したくなるのは、かっこつけにすぎない。
事実を虚心にみれば、山上容疑者の思い込み、逆恨みによる怨恨が主たる動機であり、この事件をもって、ファシズムになる、とか言論萎縮になるとか、あまつさえ、某保坂正康のように戦前と比べるなど、事実から離れた空想の類でしかない。
なぜ、将校による2.26クーデターと、個人の怨恨の果ての山上容疑者による殺害の安倍晋三元首相殺人事件が同列視されるのか。2.26クーデターは将校が暴力を行使したから、言論萎縮、軍部台頭を招いたが、山上容疑者は一般大衆の単独犯であり、山上容疑者に日本を覆す、とか、民主主義をなくす、とか、言論を萎縮させるというような力があれば、我々、一般大衆にもできないか。(あくまでアイロニーだ。)
安倍晋三元首相殺人事件を材料にマスコミ、識者、政治家は、紋切り型分析である「暴力に屈しない」だとか「暴力は言論を萎縮させる」だとか、全く思考停止なフレーズを述べ、決まって予測は、「戦争に突き進むだろう」だとか「ファシズム到来」だとか、その予測をマスコミ、識者、政治家は待ち望んでいるのだ。個人の怨恨による安倍晋三元首相殺人事件を殊更、過大視し、戦争に突き進むだろう」だとか「ファシズム到来」など述べることが彼らの自己満足なのだ。
予言は成就するから、その予言をマスコミ、政治家、識者は待ち望んでいる。
しかし、我々、人民は、虚心に事実を眺め、考えれば、わかるが、事実は、母を破産させた宗教団体・統一教会への復讐として関係者の一味として安倍晋三を殺害するに及んだ。
この事実が、なぜ、言論萎縮になるのか。民主主義への挑戦になるのか。つまり、マスコミ、識者、政治家は、元首相が、個人の怨恨で殺されることなど想定していないから、紋切り型分析に陥るのだ。もし、暴力が言論を萎縮させるなら、日々、報道で接する殺人事件はいったい、どうなるのだ。政治家だから別格に扱い、民主主義がうんぬんかんぬんとかっこつけてほざくが、一大衆が殺されても民主主義がうんぬんかんぬんとほざくべきではないか。だいたい、なぜ、民主主義と暴力が対置するのかがわからない。革命は暴力による行われるのがほとんどであり、民主主義は、その暴力の所産といってもよいくらいだ。
我々、人民は、独裁願望を持っていた幼稚な無能な政治家・安倍晋三の死を悼む必要は殊更ない。マスコミで垂れ流される安倍礼賛こそが言論の萎縮であり、それは、山上容疑者によって殺された安倍晋三が行った言論統制の結果ではないか。
山上容疑者の家族を崩壊させた宗教団体・統一教会と関係を持っていた安倍晋三、そしてその安倍晋三を怨恨、思い込み、逆恨みで殺害した山上容疑者。
真に裁かれるべきはどちらなのだ?