見出し画像

変化のきっかけ

これまで

「目に見えるものしか信じない」
「論理的であることが最良であり、感情的な判断は不要で間違いのもと」
といったことを信条としていた私は、

その在り方に疲れていたのだと思います。

今だから言えるのですが、もともと嫌な思いをすることに怯えていて、
なるべく機械的に事を進めようとする癖がありました。

それがたまたま当時のITの仕事の性質上フィットし、
それなりにうまく事が運んだ為、よりその信条を強固にしていました。

その結果私の行動は・・・
~ねばならない、~であるべきだ、
をベースに周りから見れば「確かにそうなんだけども・・・」
といったことをまくしたてることが多くなっていました。

さらにその結果、以下のようなことが・・・(ほんの一部)
・資産の扱いに関して無頓着な親が許せなくなり、正論をぶつけまくって、あまり良好でなかった関係が悪くなるばかりで何も進展しない。
・子供の育て方において、妻との関係が悪化。
・ちょっとつっかかってきた通りすがりの人にも、わざわざ正論でまくしたてて論破しようとする。

アレ・・・?

嫌な思いから逃げるはずが、自ら作り出してない?
当時言語化はしていませんでしたが、どこかコレジャナイ感を感じており、
フラフラとたまたまたどり着いたスピリチュアル系の情報を目にするようになりました。

引き寄せたりそーゆうの・・・

以前からそういったものがあるのは知っていましたが、
ビジネスの成功法則の一端と捉えており、「そーゆうのは嫌い」と敬遠していました。

しかしその時は心情もあってかするすると消化し始めました。
最も信条とかけ離れたものであるはずが、根底部分のフワッとした部分の上に乗っかっているものには論理的な強度を感じました。(あくまで個人の感想ですw)

それまで放置していたどうしても論理で説明出来ない疑問点が、これまたがしっと歯車がかみ合うように説明がつく、それこそ頭ではなく感覚で「これで良いのかも知れない」と思い始めるようになりました。

引き寄せ系のブログやスレッドをいくつも読んだりしましたが、
最初に読んだ本は

集中して本を読むのが超ニガテだった私が、通勤の行き帰りで週に2冊ペースで読み終えることもあるくらい、楽しみながら読み進めるようになったのです。

そして、自分なりに理解を進めて思ったことは、論理的に詰めることで確かに根底では「正しさ」を求めてはいたが、正しさを振りかざして他人を攻撃することを楽しんでいる自分がいた、ということ。

そして楽しみながら悲しんでいた。
これをタノカナシいと名付けます。

その「タノカナシさ」には中毒性がある!

こりゃイカン。というわけでそんな生き方はポイ!

#論理的 #正しさ #正論 #コレジャナイ感 #タノカナシい #子育て #中毒 #IT

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?