見出し画像

誰かの上司は、他の誰かの部下である

はじめに

以下の様な記事が出ておりました。

こういう「心のマネジメント大事!」「これからの時代は批判よりもサポートだ!」といった類の記事はよく見るのですが、一方で

では、批判的な上司は、何故批判的なのか?

というところまで踏み込んだ記事は少ない気がしています。

今回は、この辺について考えてみたいと思います。

「評価してる上司」、実は「評価される部下」でもある

割と抜けがちな観点ですが、ここでいう「(批判的な)上司」というのも、実は「上司の上司」から評価される部下であるということは重要な点です。つまり、彼/彼女らにとっては、上司の上司から評価されるような振る舞いを取ることが期待されているのです。

ややこしいので、以下「部下=メンバー」「上司=マネージャ」「上司の上司=ゼネラルマネージャ」とします。

ゼネラルマネージャがマネージャを評価する際、たとえば「メンバーの『目に見える』成果」だけがKPIとなっている状況を想像しましょう。

評価されないことをやるモチベーションが湧かないというのは、部下であれ、上司であれ同じです。目に見える成果以外のことが評価されないのだとしたら、それ以外のケアは正直「人に依存する」ことになりますよね。

極端に言えば、「メンバーの心はダメージを受けるかもしれないが、マネージャ本人の評価が高まる」という状況がもしあったとして、誰もが皆必ず同じ振る舞いを取れるのかという話なのです。

みんな生活がかかってるというなら、それはマネージャも一緒のはずなのですから。

上司も先生も「聖人君子」ではなく「役割」である

実は、このように考え出したのは、昨今「教師に求められるモノ」が年々増えてきていると感じたからです。

教師は、ずっと「聖職」と呼ばれてきました。また、マネージャは「偉い」とされがちです。この「偉さ」には、「人としての素晴らしさ、尊さ」みたいなものが、暗に含まれて解釈されます。給与をメンバーよりもらっているのだから、人としての振る舞いが立派でなけりゃいかん、立派であるはずだ、といった解釈です。

ただ、実際にはみんな人間です。

当然、「立場が人を作る」といった言葉が昔からあるように、上司になることで人として成長するという側面はあると思います。しかし、そうだとしても、育ってきた環境が違うというのもあるし、その日の気分(あるいは体調によるもの)もあるし、誰もが皆同じ程度に聖人か?と言われたら、そうとは言い切れないでしょう。

ともかく、評価における理想の姿というのは、(自分を棚に上げて)聖人でなれ、聖人であれと精神論をかますのでなく、「心のケアが妥当に評価される評価指標」をそもそも作るべきなのでしょう。これまでは定量的に計れないから、そういう指標を作ってこなかっただけで、そうさせたいなら、そういう評価指標も設けるべきなのです。

心のマネジメントは人にゆだねない方が安定するのではないか、という説

とはいえ、そんな評価指標はなかなかお目にかかれないし、あなた/私が勤めている会社にそんな指標が入るかもよくわかりません。ましてや、上司がその指標をこちらの意図通りに運用してくれるかどうかはもっとわかりません。

よって、「心のマネジメントを上司がしてくれない!」と嘆くよりも、「私の心のマネジメントは、私が自分でする!」と考える方が、むしろ心の安定には良いのではないかと感じています。

この考えについては、現在思うところがあり、整理している最中です。まとまったら、また公開したいと思います。

(つづく)

課金してくれるととても嬉しいです。シェアしてもらっても嬉しいです。「いいね」も嬉しいですし、フォローも嬉しいです。要するに、どんなことでも嬉しいです。