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「浅井」という男③

 安楽死をビジネス化させよう

「死ぬことが必要な人に、それを提供できるようビジネス化させよう」


自分の無茶な提案に浅井は即OKを出した。


提案の根源にはこんな考え方があった。
当時は研修医だったが、医療現場で人の死に方をそれなりに経験した。素直な感想としては「誰が幸せなんだろう」である。人一人が亡くなる状況に幸せもクソもないのは当然なのだが、それでも自分は人が亡くなっていく状況をみて全ての参加者(本人、家族、医師、看護師、その他のスタッフ...etc)が結局は「受け身」なのだ。「死ぬこと」に対する選択肢があまりにも限定的で、皆がある種の「流れ」でそれらを選んでいるようにしか感じられなかった。

本人あるいは家族が死にゆく中で、真に感謝されたことはあっただろうか。

「これまでありがとうございました」と家族に言われることはあっても、みなが幸せだったとはとても自信を持って断言できない。


考えたビジネスモデルはこうだ。
安楽死が必要な患者を「安楽死を認めている国や地域に連れ出し、安楽死を受けていただく」または「公海上で安楽死を提供する」というやり方である。

まさにブラックジャックのドクターキリコである。

倫理的あるいは法的に物議を醸すのは百も承知であったが、本気で自分は「そういう医療」が必要だと思っていたのだ(今も思っている)。何なら逮捕されてでも世論が動くなら、それは価値があることであると開き直ってさえいた。そんな提案に即便乗する彼も変なやつである。


まず弁護士に法的な見解を聞きに行った。
東京駅にある弁護士事務所に2週間に1回ぐらい通った。

「殺人罪および自殺幇助の解釈」
「過去の判例」
「海外の判例」
などなど聞いて、調べて、自分たちでまとめていった。


また、海外の実際の安楽死症例のニュースや記事も調べていった。当時、アメリカのブリタニーさんの安楽死は全米で話題にもなっていた。

https://www.huffingtonpost.jp/foresight/euthanasia_b_6039600.html


アメリカの一部の州(ワシントン州、モンタナ州、バーモント州、ニューメキシコ州)、スイス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクなど安楽死を認める国や地域も個別に調べ、海外からの「医療ツアリズム」も可否を中心にまとめていった。


相談料に何万円とかかったりし、これらの活動は家計に大ダメージだったが何より楽しい毎日であった(浅井なんて収入がゼロの月もあった)。自分の場合、研修医っていうのは「ちょっとお金を貰っている医学生」ぐらいの認識で、社会人としては非常に行動し易い時期だったと思っていた。今思えば、プロ意識を欠いたとんでもない医者だったのだが・・・(苦笑)。家賃も5千円だったし、養う家族もいないし、貯金する意味も特に無かったし、とにかく自由だった。


研修医の仕事が終わった瞬間、西武新宿線に乗って都心部へ行き、浅井と落ち合う。そういう生活を毎日繰り返していた。


色々、勉強する過程で安楽死に関する「国内の権威」を味方につける必要があると感じ、その旨を浅井に相談した。


次の日の夕方、レオパレスに帰宅すると浅井がパンツ一丁で洗車しながらこう言った。


「今日、日本尊厳死協会に行って、副理事長と約束を取り付けて来た」


黙々とスポンジでぼろぼろのハイエースを拭きながら、ぼそっと彼は言った。


浅井は研修生活を中断し、東京に来ている身分だったため、確かに日中の時間はあるのだが、「もうそんなに話進んでるの!?」と驚いた。相変わらず浅井という男は行動力の塊みたいなやつである。


次の日、仕事を焦燥気味に終わらせ、夏だったがシャツとジャケットに着替え、電車に飛び乗った。


紀尾井町にマンダリンオリエンタル東京というホテルがある。その日の会合は、このホテルのラウンジで予定された。


お会いしたのは、日本尊厳死協会副理事長の鈴木 裕也 先生である。内分泌内科の専門医でもある鈴木先生は同日同場所で開催された学会に参加しており、その合間の時間にお会いして頂けた。

(左から鈴木先生、筆者、浅井)

尊厳死と安楽死の違いに関する様々な解釈や、それを取り巻く法的規制や宗教的概念、さらには政治資金やその流れなどを教わった。浅井と二人で、2ヶ月ほど徹底的に調べたつもりであったが、比較にならないほどの情報量であった。

そして、安楽死をビジネス化することはできないか、尋ねてみた。


結論は「どちらとも言えない」であった。どちらかと言えば「無理とは言い切れない」という表現であったものの、背中を押されるほどのお言葉は頂けなかった。


理由としては⑴第一に法律の壁が大きい、⑵40年も前から「日本尊厳死協会」が活動しているのにも関わらず普及できていない、⑶製薬会社が組する政治資金の関係、⑷人の生き死にを商売にすることはハードルが高い、などであった。


「国内で普及できていない」からこそイノベーションの価値があるもんだ、と思いつつも、コトの大きさや医師としての未熟さなど、自分と浅井は意気消沈気味だ。


行動力だけで先走っても問題解決にならない初めての大きな壁だった。


ちなみに鈴木先生はとても博学でいらっしゃり、医療以外の分野にも非常に精通されており、趣味のブログには安倍総理に招待された「桜を見る会」のお写真なども掲載されていた。

別れ際の鈴木先生の言葉はその日で最も勉強になった。

「僕はね、一つのことを掘りすすめるより、たくさんのことを広く浅くやる派なんだ。その方が疲れないし、楽しく人生を謳歌できると思っているんだ」


その後、小平市のレオパレスに戻り、今後の作戦を考えた。


(続)


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