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28:あのころの遊びの先に

5歳ごろ。
幼稚園に行く前の遊び相手は、4つ離れた姉であることが多かった。

特によく覚えているのは『リカちゃん人形』だろうか。
友人と遊ぶ姉に加えてもらい、役割を与えられて遊んでいた。
少女の遊びと捉えられがちだが「役割を与えられて演じる」というのは『仮面ライダー』好きの少年にとっても、ある種の変身願望を刺激するものだったのかもしれない。

右奥のトースターは『リカちゃん人形』の家具だった気がする

紙に絵を描いて切り取り、それを使った「ままごと」のようなこともやっていた。
ときには母も加わって、デザートの絵を描いて切り取り、レストランを真似た「ごっこ遊び」をやったりもしていたものだ。

その延長で、ときどき姉が主催して「お楽しみ会」みたいなこともやっていた。
観客は父と母、祖母のみ。
ドラえもんの絵を描いて切り取り、紙芝居か人形劇のような演物だしものをやっていた。
いま思えば相当稚拙なものだったと思うが、大人たちはよく付き合ってくれたものだ。
収納をひっくり返せば、どこかにまだこのときのドラえもんの絵があると思うが、あまりに暑くてまったくその気にはならない。

ほかには『宝探し』と呼んでいた遊び。
宝物を決め、一人が隠す役。
探す役のほうは、紙に書かれたヒントを見て、家のなかにあるものから特定し、そこを調べると次のヒントが書かれたメモが見つかる。
それを繰り返して、宝にたどり着く遊びだ。
隠したほうも、探す様子を見てニヤニヤしたり、ヒントを出したり、宝が見つかるまで楽しめる。
ヒントは直接そのものを指定するのではなく、考えて連想できるようなものだ。
私はこの遊びが特に好きだった。
準備するのがそれなりに大変なので、あまり頻繁にはやらなかったが。

以前にも、姉に遊んでもらったことを書いた。
友人と遊ぶときに毎回加えてもらって、思い返せば邪魔なこともあっただろう、と記したところ「邪魔だと思ったことは一度もない」との言葉を頂戴した。
未就学児にとっては難解な役割を与えることもあったらしく、姉も当時のことをよく覚えているようだった。

そして、隣に住んでいた親戚の家で遊んだ、ファミコンの『スーパーマリオブラザーズ』。

スーパーマリオブラザーズ / 任天堂
(2021,07,15)スーパーマリオブラザーズ / マリオ

家にあがることも稀だったため、従兄の部屋に入ることはほぼなかったが、1回か2回、歳の離れた従兄がファミコンで遊ぶ様子を見て、すぐにマリオに魅了された。
部屋の棚に飾られていた『機動戦士ガンダム』のプラモデルや、マスク姿のシャアも印象に残っている。
もっとも当時の私はガンダムも登場人物のシャアも知らなかった。
外見を覚えていて、あとでわかったことだ。

4歳ごろの絵にもファミコンが描かれている

いまこれを書いているのは7月21日。
窓の向こうで、蝉の声がかまびすしい。
あのころの夏の記憶が、自然と蘇ってくる。

***

そんな遊びの最中にも、厳しい祖母はよく声を荒らげた。

たとえば
「セロハンテープがどこにいったかわからない」
と子供たちが探しているのを見るやいなや
「日頃から管理ができていないからだ」
「決まった場所に戻さないからだ」
といった内容を、苛立った様子で、かなり厳しい口調で叱る。
ときには、鬼の首を取ったように罵られることもあった。
探しものが見つかっても、追加で厳しく詰められる。
子供心に「そこまでキツく言わなくても」
「誰だってそんなこともあるだろうに」と反発していた。

ところが一方で、祖母が「眼鏡がない」と探す。
また機嫌を損ねてはいかん、と子供たちも手分けして探す。
しばらくあちこち見てまわるも発見できず。
「ないなあ、どこにいったんだろう」
あのときの私にとっては、冷や汗ものだった。
『人に喜ばれない自分は、いてはならない』
そんな思いが常に心のどこかにあった。それが、いまならわかる。

以前の記事にも書いたが、2歳ごろ、風呂場で祖母に罵られたことが、私にとっての一番古い記憶だ。
「喜んでもらいたい」「褒めてもらいたい」という懸命さが報われなかったことからはじまった記憶。
おそらく、その欲求の裏返しで「役に立たなければならない」「喜んでもらわなければならない」と、どこかで感じていた。
そういう期待に応えられる自分でなければ「いてはならない」のだと。

ただ祖母の探しものを見つけられないことが、無意識下で自身の存在意義にまで影響を与えていたのだ。
そんな心の動きに加え、みんなの機嫌がいいほうが、いいに決まっている。
だからなおさら、早く見つかってほしい。
自分の探しもののように焦りを感じていたことを覚えている。

そしてしばらく探していると、祖母が不意に「ああ、ここにあったわ」と言いながら、自分の頭上に乗せていた眼鏡を発見する。
灯台下暗しとはまさにこのことで、祖母の周辺を探してまわっても、祖母の頭までは見なかったのだ。
ともかく見つかってよかった。
しかしこういうとき、笑って済ませる祖母の姿勢が、私には疑問だった。
人にはあれだけ言っておいて、自分のときはそれで済ますのか、と。

このころにはすでに
「自分のできないことを他者に強く言う人」のことが
=『苦手な人』と私の心に刻みこまれていた。

そういった人は、学校のクラスにいたり、あるいは教員だったり、社会に出てからもブラックな企業で、たびたび出会うことになった。

はじめから強い立場にいながら、強いことを言う。
できなければ罵る。嫌味を言う。
ところが自分がやってできなくても、適当に笑って済ませる。
それはつまり、他人に厳しく、自分に甘いということではないだろうか。
どこに行っても大抵は出会う人種だが、私はそういう思考の人が本当に苦手だ。
完璧な人などいないのだから、至らないところは互いに許し合って、よほどのことがないかぎり、平穏に過ごせないものなのだろうか。

当時の私は、祖母とよく衝突していたと思う。
いや、5歳そこらでは言い返せず黙ったり、あるいは言い負かされて泣いていただろう。
小学校に行くようになったあたりから、言い合いになることが増えたのではなかっただろうか。

祖母は基本的に「これこれこういう理由だから、こうしなさい」というよりも、祖母自身の「ほらみろ、こうしてないからダメなんだ!」という、その瞬間の感情を言葉にしていたという印象が強い。
大抵は物事の結果が出てから強く言うので、言われるほうは返しようがないのである。
不測の事態として出てしまった結果は、変えようがない。
それをその段階で感情的に責められても、行き場がない。逃げ場もない。

***

自分に非があれば素直に認めるが、一方的に言われて納得できないことがあると、私はよく腹を立てていた。
「誰にでも起こり得ることなのに、なぜそこまで強く言われなければならないのか」という点で、どうにも納得できないのだ。

それは社会人になった以降も、あまり変わっていない私の性質だと思う。
社長や上司が、その場の気分による「朝令暮改」で一方的に言うことに対し、納得できないことは資料を揃えて「正式な決定」を求めたりしていた。

もちろん、立場上「指示に従う」ことは前提としてある。
指示に従ううえで、起きる問題というのが多々あったのだ。

「今後は◯◯しろ」と指示を受けてやっていたら、しばらくして同じ口から「なぜ◯◯するのか」と真逆のことを言われる。
「■■もやったらどうか」と言われるが、それは◯◯以前に自発的にやっていたことで、やめろと指示があったのでやめたのだが……。
といった調子のことを毎日毎日繰り返されて、現場は振りまわされっぱなし。
「以前はこういう指示でしたけど、どちらにしますか?」というやり取りが毎日のようにある。
社長は「俺は朝令暮改だから」と開き直る。
指示された通りにやるよう徹底しており、現場に決定権はないにも関わらず、結果についていろいろと言われる。
あまりに振りまわしがひどいので、そのつど資料を揃え「正式な決定」を確認するように努めていると「ただ責任の所在を明確にしようとしている」と誤解されたのか「他責の姿勢はやめろ」と言われる始末。
自分の気分次第で適当にやりたい人間からすれば、私の存在はさぞ鬱陶しかったことだろう。

やがて部署の人員は次々に減らされていき、休憩に行く暇もなくなっていった。
そして長年に渡って振りまわされ続けたせいか、私はいつしか心を病んだ。その職場を離れて、しばらく経つ。

いまでは、かつての取引先の業者のトラックを道で見かけたり、かつての職場に似た雰囲気の場所に行くだけで突然気分が沈んだり、思わぬタイミングで心拍数があがったりする。

人に会うことになった時点で、家を出る前から蕁麻疹が出ることもある。
考えてみれば、会う相手が「言うこととやることが違う人」だとか「自分の都合だけで予定や行動をコロコロ変える人」だったり「理由も言わず指示をして、従わせようとしたり誘導しようとする人」「はじめから批判的な眼で見てくる人」、そして「自分ができないことを他者に強いる人」といった傾向であることがわかる。

花粉の許容量を超え、ついに花粉症になってしまうように、長年耐えているうちに許容量を超えてしまったのだろうか。
不意をついて出る、アレルギー反応に近いものを感じるというのは確かだ。

***

すっかりそれてしまったが、話を戻そう。
途中までは、楽しい思い出話だったはずだ。どうしてこうなった。

ともかく、あのころの遊びから感じたことは、いまも自分のなかに息づいていると思う。

姉との遊びのなかで楽しく感じたもの。
「人形遊び」「絵を描き人形劇やお店ごっこ遊び」「宝探し」。
従兄のところで知った「テレビゲーム」。

それらが、私のモノ創りの源流になっている。
いまやっている小説やイラスト、RPG(ロールプレイングゲーム)制作は、いわばそれらを合わせたものだ。
小説やRPGには、人形遊びや絵を描き、シナリオに合わせて動かす人形劇の要素があるし、ゲーム内にはお店だけでなくさまざまな役割の要素がある。
それに「与えられた役割を演じる」というのはそのまま「ロール・プレイング」である。
さらにRPGといえば「宝探し」も重要な要素だろう。

自作ゲーム

そして当時、祖母に感じた「理不尽」や「葛藤」。
そこから至る「納得できないものとの対峙」。
現実だけでなく、創作物語でも、それは除外できないテーマとなっているはずだ。

自作小説の文庫本

あのころの遊びの先に、私はいる。
自然体で、自分が面白いと感じるモノ創りで生きていけたら、と思う。


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