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18:波打ち際に残したもの

4歳ごろ。
あの時代、夏休みになると家族で海水浴に出かける、というのは定番のレジャーだったと思う。

いまは海水浴という言葉すら、ノスタルジックな風情を感じさせるほど、縁遠い場所だ。
父の生まれ育った場所は海のそばで、子供のころはよく、そのあたりに連れて行ってもらった。

当時の夏は、いまほどひどい暑さではなかった。
明け方には、少しばかりひやりとした夜気が漂い、日中も木陰で風を待つような時間があったものだ。

少し話はそれるが、今年(2023年)の8月に知人から歌のリクエストをもらった。吉田拓郎さんの曲だ。

きちんと聴くのははじめてだったが、タイトルは『夏休み』。
8月も終わりかけの時期にもらったリクエストだったので、これは今月中にやらねば、と歌ったのだった。
幸い、めまぐるしい展開の曲ではなかったので、すぐに歌うことができた。

1971年に発表され、その後もさまざまなバージョンがアルバムに収録されている。1989年にシングルとしてCBSソニーからリリースされた。
(Wikipediaより抜粋)

この曲がリリースされた1971年に、すでにたくさんの夏の風景が「懐かしいもの」として歌われていることは興味深い。
リクエストをくれた知人は70代前半。吉田拓郎さんと近い世代なので、似たような夏の思い出があるのかもしれない。

年代こそずいぶん違うが、私もこの曲を聴いて自分の「懐かしさ」を重ねた。徐々に徐々に、夏の風情は失われていったということなのだろうか。

夏は陽が強く、空は青く、緑の色も濃い。
地域や年代によって景色は違えど、幼少の夏の記憶は、誰にでも色鮮やかに残っているのではないかと思う。

***

さて、4歳の夏。

両親と姉と、海へ行った。
4歳には「夏休み」は無関係だが、これも家族の夏休みの思い出だ。

たびたび書くが、私は生粋の出不精である。
そもそも出かけること自体が好きではないが、父の運転する車で、窓から景色を眺めるのは好きだった。ずっと見ていると情報量の過多で、くたびれてしまっていたが。

よく乗り物酔いもした。閉め切ってエアコンをつけているよりも、窓を開けて吹きこんでくる風に打たれているほうが気分はよかった。
車の後部座席の窓が、運転席のように全開にならないことが、少々不満ではあったが。
ニオイにも敏感なので、車の芳香剤や香水も苦手だ。
申し訳ないが私は毎回、鼻をつまみたい気分になる。
バス・タクシー・電車など、公共の乗り物特有のニオイも苦手で、それも加わって、揺れる閉鎖空間で酔いやすかったのだと思う。
いまではすっかりエアコン派だが、風の強い日は好きだ。虫や暑いのは苦手だが、自然のなかのほうが身体には合っているのだろう。

***

車の窓から海が見えると、小さく心が踊った。
到着するまでに、曲がりくねった道のガードレールの向こうに、建物の隙間に、海が見え隠れする。茶色い岩場に打ち寄せる波。白い飛沫。道沿いに建つ、海鮮料理を出す古びた食事処。

オレンジ色の塗装が剥げかけた屋根の倉庫。その脇に車が停まる。

当時は、シーズン中でも人があまり多くない場所だったと思う。
用意された海水浴場というよりは、漁師町の海辺の一角、という印象。
ときどき「今日は人が多いな」というときもあったので、穴場だったのかもしれない。
どんな場所でも、人が多いのは苦手だ。

車を降りて、浜辺に向かう。
道路のほうから干あがりかかった細い流れがあり、そこに樹皮が剥げて白くなった流木や、網や浮きなどの壊れた釣具が引っかかり、波で打ちあげられた茶色っぽい海藻が貼りついている。
引き潮に取り残された潮溜まりが、陽を浴びて磯臭くにおう。夏だ。

いまでも「磯臭さ」は、自然にこのときの情景を連れてくる。
一生忘れないことのひとつ、なのだろう。

ビーチパラソルや浮き輪なども家にあった。
パラソルは組み立て式で、プラスチック製の青い容器とセットである。その容器に水を入れて、重さを与えると土台になる。持ち手がついていて、水を入れて運ぶときにぶらさげられるのだが、子供の私には結構重かった。
容器は平たい形状で、上面に黒い蓋がついている。そこに水と一緒に浜の白い砂粒が溜まっていて、小さな海になっていたのを覚えている。
白い支柱を立て、赤青白という、床屋のシンボルのようなカラーリングのパラソルを開き、日陰を作る。

そのパラソルの下で、母が作った昼食を食べたのも、いい思い出だ。
子供のころは意識していなかったが、早起きして準備したのだろう。
特に覚えているのは、わかめご飯とゆかりご飯のおにぎり。
サンドイッチのときもあった。鶏の唐揚げや海老フライ。
母は料理上手なので、いろんなものを手作りしてくれた。
入れていた黄色い蓋の容器も、懐かしい。長方形で、二段に重ねて横をとめるバンドがついていた。いまだ健在な容器なのが驚きだ。

昼食を食べ終わったころに、飛びあがったことがある。
レジャーシートに座って海を眺めていたところ、背中に父の煙草の先が触れたのだ。事故なのだが、これものちに父に煙草をやめてもらう、きっかけのひとつだったのかもしれない。

***

浮き輪は、真っ青なものと、白ベースに赤いラインの入ったものが記憶にある。
4歳の私は、車型の浮き輪に乗っていた。浮き輪のほうは、輪が大きかったのだろう。
車型の浮き輪は、正確には浮き輪ではなく、黄色い底面が張られており、そこに脚を通す穴がふたつ開いていた。小さな子供が、油断して海中にするりと抜け落ちないようになっているわけだ。

当時の写真には、東京に引っ越すことになった姉の友人も一緒に写っている。絵が上手で、よく姉と一緒に遊んでもらった人だ。

8月7日。右下に日付の入った写真を見ると、父のカメラの音が聞こえる。
当時はデジカメなどない。白い半透明のフィルムケースから取り出したフィルムを、カメラに入れてシャッターを切る。
「チキッ、ウィー ウ ウィー」情景が切り取られる音だ。
シャッターボタンを押すたびに、カメラからそのフィルムを巻く機械音が鳴り響く。

***

さて、楽しい時間を過ごしたわけだが、私がなかなか海からあがらずにプカプカ浮いていたために、ちょっと大変なことになった。
両腕に、日焼けと大きな水ぶくれができてしまったのだ。

母曰く、皮膚科の医師から
「これは火傷やけどです、親の責任です」と言われたのだとか。

実際、この水ぶくれは大きめで痛かった覚えがある。
白い容器に水色の蓋。皮膚科で処方された、少し油臭いニオイのする軟膏を塗られ、自分で水ぶくれを破ってはいけない、と注意をされ、じっと横になっていた。
様子を見に来た姉に「姉ちゃんだったら絶対泣いてる」などと、強がってみせていたようだ。馬鹿だなあ。だけど、少年らしい強がりだなとも思う。
思えばこのときからすでに、やせ我慢をするところがあったのか。

車型の浮き輪は、上に乗っている状態なので上半身が水に浸からない。
多分、姉たちのように浮き輪を使って肩近くまで水に浸かっていれば、ああはならなかったのだろう。不覚である。
昨今であれば、メーカーにクレームを入れる親もいそうな案件である。

***

4歳の私は、おそらく姉の夏休みの宿題に便乗して、祖母の似顔絵を描いていた。絵の具なども、姉に借りたのだろう。真白ではなくややクリーム色のパレットや、黄色いバケツを間に置いて。

4歳 8月10日
同居していた父方の祖母の似顔絵

祖母が一緒に海に行った記憶はないので、家で1人留守番をしていた祖母を子供ながらに可哀想に思ったのかもしれない。この絵が、慰めになったのかはわからないが、私はそういうことを考える子供だった。

これも、夏の思い出だ。

足の届く浅いところで、浮き車に乗り、母と一緒に笑っている写真が残っている。
屈託のない笑顔。夏の浜辺に、忘れてきたのではないか。

鮮やかに思い出せるが、なにもかもが遠い記憶だ。

覚えたばかりの吉田拓郎さんの曲が「畑のとんぼは どこ行った」と脳内再生される。

私の夏は、どこにいったのだろう。

MPは気力みたいなものだと思おう


▼追記:2023年9月26日

この記事を読んだ母から、写真が届いた。
まだ倉庫にあったらしい。恐るべし。
私が見るのは当時以来だが、遠い夏の記憶のままの姿だった。

母から届いた写真


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