14:西へ遊び記す
4歳ごろ。
私はある映画を観た。
『ドラえもん のび太のパラレル西遊記』である。
その後もテレビ放送を録画したビデオを何度も観ていたので、その記憶が濃い。
VHSのテープは画面に横たわるノイズがよく入ったものだ。
その歪みも、合間のCMも、思い返せばなにもかもが懐かしい。
懐かしみながら、最近この映画のイラストを描いた。
映画を観るまで私は『西遊記』、そして孫悟空というものを知らなかった。
孫悟空といえば、いまや世界的人気を誇る『ドラゴンボール』は、1984年の連載開始。
このドラえもんの映画の時点ですでに「ピッコロ大魔王編」と呼ばれるあたりのコミックスが発売されているので、世間的な注目はそちらの孫悟空に集まっていたと想像できる。
が、私はそちらもこの時点では知らなかった。
私の『西遊記』との出会いは、ドラえもんだったのだ。
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『ドラゴンボール』の孫悟空は着けていないが、大抵はどの悟空も頭に着けている輪っかがある。
悟空にとっては忌々しい輪っかなのだが、ドラえもんにおいてはそういった描写はなく、単なる装備品となっている。
幼い私は、その「装備品」にちょっとした憧れを抱き、厚紙などを使って自分で作っていた。なんとも微笑ましいものだ。
描いてみると、あの輪の額にあたる部分のくるりとなった形状が、うまく左右対称にならず、意外に難しいことなども知った。
つたない仕上がりでも、思い描いたものをカタチにすることの楽しさを感じていたと思う。
ほかにも、繋ぎ合わせて大きな紙を作り、映画に登場する牛魔王の絵を大きく描いたりしていた。
実家の玄関は吹き抜けになっているのだが、二階からそこにぶらさげて大きな牛魔王を見あげてみたりもしたものだ。
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そういえば映画のなかで、のび太が扮する孫悟空が筋斗雲に乗って飛行し、道中で水場に降りると、片手の掌で水を掬って飲む、というシーンがある。
なにげないワンシーンだが、さすらい感のある旅人の行動のひとつとして、やけに惹かれたのをよく覚えている。
いまなら、川の水は細菌や動物の死骸などで汚染されている可能性があるのできちんと濾過して、煮沸して飲まないと危ない、などとつい考えてしまうが。
また、悟空といえばその手に携えている「如意棒」だ。
伸縮自在の棒で、これにも惹かれるものがあった。
以前の記事で触れた『スピルバン』も、敵を討つときは棒状の武器を伸ばして発光させていたが、少年は得てしてこういうものに惹かれがちだ。
たとえばラジコンのアンテナだけを取り外して、伸縮性の武器を得た気になっていた少年は、きっと全国にいることだろう。
意外にも、こういった時期に刷りこまれた憧れの記憶が、自分の小説作品にも繋がっているような気がする。
旅の姿や、武器装備、敵対する者の強大さなど、この映画から学び得たことは少なくないのではないかと改めて感じた。
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そして、この映画作品の主題歌も好きだった。
「旅に出たのは、心の求めに従ったからだ」というシンプルな歌詞。
シンプルがゆえに「行動を起こすために細かい理由はいらない」という明快なテーマが前面に出ていて、そこに惹かれたのかもしれない。
絵を描いたので、その流れで主題歌も歌ってみた。
この映画で『西遊記』を知った私は、その後に出会ういろんな「孫悟空」に興味をもつことになる。
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それにしても、振り返ってみるとどうだろう。
どうやら私は、幼いころに悟空の輪っかを自分で作り、頭に着けてみたときから変わっていないらしい。
「モノ創り」という名の緊箍児を頭に着け、みずから経文を唱えるかのように、創作の旅へと心を駆り立てているのである。
「旅に出たのは、心の求めに従ったからだ」と口ずさみながら。
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