10:知ったのは人生の味か
3歳ごろ。
この時期は、いろんな「はじめて」を食べる機会が増えるころだろう。
母に先日、思い出話を聞いた。
出汁取りに使った小魚の干物(※)を、具としてそのまま味噌汁に入れていたところ「顔も食べていいの?」と私が訊いた、というもの。
「頭」ではなく「顔」と言ったところがツボだったらしい。
魚の場合は顔ではなく「頭」というのが一般的だが、その「一般的」というものが、私には欠けていた。
言葉を知らないというより、言葉選びが独りよがり、とでもいったところだろうか。自分が顔だと思っているから顔なのだ、という具合である。
「お約束」みたいなものを知らない。いわば世間知らずなのだが、3歳の私は、自分が世間知らずということも知らなかった。
そんな私も現在は、自分が世間知らずだということを知っているので、いくらかマシになったはずだ。無知の知である。
***
ちょっと話はそれるが、母に確認したところ、このころに父親の信仰先が変わったらしい。
父の家には代々なのか詳しくは知らないが、もともとの信仰があった。イメージ的には、古い日本家庭に多い伝統的なものだろうと思う。
そのころは父の父、つまり私の祖父の骨は、父の生家近くの寺にあったという。
母の話では、その寺は父の家のもともとの信仰とは違っていたが、それでも祖父の骨を納骨していたのは「単に家に近かったから」と、亡き祖母が言っていた気がする、とのことだった。きっとそこは、よその信仰にも寛大な寺だったのだろう。
母によれば、そこから父方の祖父の骨が現在の場所へと移ったのが、この時期のようだ。
父と、一緒に暮らしていた父方の祖母とともに、7歳の姉、3歳の私が、同じ時期に入信したらしい。
「らしい」というのは、私にはそういう意識がまったくなかったからだ。
たとえば七五三などの儀式的なものは、子供のころに意識せず執り行われている。
「よくわからないけど、まあ、そういうものなんだろう」で、気づくと終わっている。私のなかでは、それらと同列のものだった。
そこに特別な意味など、さして感じてはいなかったのだ。
そんなことよりも、庭の鉢の下に隠れているダンゴムシ(※)の行動のほうが、よほど興味があった。
親に合わせて子も。
こういった信仰のかたちを、世間では「二世」だとか呼ぶようだが、3歳で世間知らずの私は、なにも知らないまま、そこに加えられていた。
ちなみに昨今話題の例の宗教とは違い、特に世間を賑わせてはいない。
正直なところ私はすっかり縁遠いが、念のため書いておく。
おそらく古くから、世界中のさまざまな宗教で成されてきたことなのだとは思う。
けれども、物心つく前に、本人の意志や自覚もなく入信させられるということに、信仰のあり方としては違和感を覚える。
興味を持ち、宗派についてきちんと学び「自分には必要なものだから信じます」と思った人が、みずからの意志で加わることが、すなわち「入信」なのではなかろうか。
子供のうちから~早いほうが~というのが、勧誘する側の表向きの理由だろう。
しかし、未成年が、本人の意志もなく加えられるという体制、そのシステムをよしとしていること自体が、宗派の人数稼ぎを目的としているもの、と感じざるを得ない。
人数集めに躍起になるということは、その時点ですでに、べつの意志が働いているように思う。
本当に自信があるのなら、躍起にならずとも人は集まるはずだ。
信仰している者がそういうふうに信じられないところが、すでに「力がない」と言っているようなものだと思うのだが。
ともかく、この『寺』との接点が、幼少~学生の私には特に大きく影響した。
宗教そのものや宗派などの違いはあれど、似たような『縛り』のなかに生きることを強いられていた同世代の子供も、案外少なくなかったのではないかと思う。
小学生のころには「うちの宗教では争いごとが禁じられているから、運動会の騎馬戦には出ません」という親の伝言を、担任に提出する同級生も数人いた。
「ほかの競争はいいのか?」と、子供ながらに感じていたことをよく覚えている。大人に理屈があるように、子供にも子供なりの理屈があるものだ。
ちなみにその子は、外では結構やんちゃだったが、自宅に遊びに行くと親の前では言葉遣いがナヨっとした丁寧語にいつも変わっていた。
『縛り』に染まった家庭で、彼は演じることでしか生きられなかったのだろう。
***
すっかり横道にそれたが、話を戻そう。
3歳当時、外食というのは頻繁に行くものではなかった。
もちろん家庭状況にもよるだろうが、いまのように外食チェーン店なども多くはなく、基本的には母の手料理である。
私の母は料理上手で、いろんなものを手作りしてくれた。
思い出深い料理もひとつやふたつではない。
私が歯科技工士を辞めたあとに調理師となったのも、母の料理があったからだと思う。いろんなものを食べさせてもらい、料理をする姿を眼にしていたことが、知らず知らずのうちに基礎となっていたのだ。
そんな状況で、記憶に残っているファミリーレストランがある。
経営をしていた大手企業が倒産してしまい、いまはなくなってしまったが、テレビ番組を録画したテープにその店のCMもあって、小学生くらいまではそのテープを繰り返し見ていたので、より記憶に残っているのかもしれない。
おそらく数えるほどしか行っていないのだが、私は、その店で注文すると最初に出てくる平皿に入ったコーンスープが好きだった。
マグカップではないところが、いかにも洋食レストランという感じがする。
暖色系のオレンジの照明。
テーブルに並べられた食器のなかから、家でカレーなどを食べるときとは違う、先細りになっていない丸型のスプーンを選ぶ。使いこまれて鈍い光を放つステンレス製で、持ち手までちょっと厚みのあるスプーンだ。
「こういう場では、音をたてずに飲むのがマナーだよ」
「スープは手前から奥へすくうんだよ」(※)
そんなことを教わりながら、一応大人の真似をして、ちょっと意識して食べていたのを覚えている。
このレストランでは「誕生日に来店するとケーキがもらえる」というサービスがあった。CMの記憶はあるものの、自分の誕生日に行ったことがあるのかは、はっきりと覚えていない。姉の誕生日で行ったという可能性もあるので、なんともいえない。
ちなみに母に訊いてみたところ「多分、行ったことある」との返答だった。
同世代の人であれば、幼い日の外食の思い出というのは、わりと特別なものなのではないかと思う。日常的に頻繁に行く場所ではなかったからこそ「非日常のご馳走感」を感じられていた。
いまでは、ファミレスだけでなく、回転寿司、ハンバーグやステーキ、焼肉などの店舗がどこにでもある。商業施設のなかにもさまざまな飲食店があって、子連れの家族がよく訪れている。
去年だったか、妻と訪れたファミレスで、どこかの家庭の小さな姉妹が「これは好きじゃない」「美味しくない、もういらない」「パフェが食べたい」と口を尖らせて騒いでいるのを耳にして、なんだか少し寂しいような気持ちになったことを思い出す。
現代の子供たちにとっての「ご馳走感」はどこにあるのだろう。
訪れるだけでなんとなく特別な感じがする、そんな場所。
大人になったとき、しみじみと思い出す、料理を囲む家族の笑顔。
***
世間知らずの私は、聞きかじったテーブルマナーなどから、少しずつは世間を知っていったのだろうか。
「風呂場で滑ってコケたことがあったな」と父が言う。
飛び跳ねていて、父が注意した矢先に転倒したらしい。
濡れた足で跳ぶと、滑って転ぶ。
そんなあたりまえのことを忘れて、人はときどき無理をする。
大人になっても、無茶をして転ぶ。
世間を知ることは、味を知ること。
甘さを知ったのは、世間知らずの自分の認識の甘さから。
だとすれば苦さは、思うようにいかない人生の味か。
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